前田利家×草津温泉
世間も注目、これぞ大名湯治
|あの武将の温泉好きエピソード④
戦国時代の名将にも温泉を愛し、湯に癒しを求めた人は多い。戦いの合間に彼らが温泉地で過ごした逸話あれこれをピックアップ。
今回は、加賀藩百万石の礎を築いた前田利家が湯治で訪れた草津温泉を紹介する。
前田利家(1538-1599)
織田信長に仕えて数々の戦功を上げ「槍の又佐」と呼ばれた。信長没後は秀吉に従う。豊臣政権の五大老の筆頭格となり、後に百万石にまで成長した加賀藩の基礎を固めた
草津温泉
群馬県吾妻郡。名物である湯畑を中心に温泉街が広がる。中心地の泉質は酸性度が非常に高い酸性泉(酸性低張性高温泉)
加賀百万石の礎をつくった前田利家の草津来訪は最晩年にあたる1598(慶長3)年の3月下旬。「槍の又佐」の異名で戦場を駆け回った彼も積年の激務に体調を崩していた。息子・前田利長に家督を譲って隠居の身となった彼はゆっくり休みたいと思ったようだ。豊臣政権のトップの地位にあった重鎮が湯治に行くと聞いた人々からは思い思いの見舞い品が届く。堀秀治からは湯帷子(浴衣の原型)を20枚に酒肴やたらい。徳川家康からも湯帷子、夜着2枚、蒲団や酒肴など。それらに囲まれ、鍼医者や能役者も連れてきて万全の態勢。ゆっくりできたと思いきや、そうもいかなかった。京都で病に伏していた秀吉が重篤という知らせが来て、5月21日に利家は草津を離れた。さすがに「太閤秀吉」の危篤なれば、療養中の利家も駆けつけざるを得ない。結局、秀吉は8月に世を去り、利家もその翌年の春に後を追うように亡くなった。もっと早くから温泉でのんびりできる時間があれば……と考えてしまう。
武将に人気だった草津温泉
東日本を代表する温泉地として有名だった草津には、多くの武将が湯治に来ている。1559(永禄2)年、小幡信貞が草津で湯治中に居城を乗っ取られてしまったという話も。当時、草津は武田信玄の統治下にあり、1567(永禄10)年に入湯禁止令を出したことがある。治安の乱れか、ひそかに負傷兵を療養させたともいわれる。武田氏の滅亡後は、織田信長の配下・丹羽(にわ)長秀、堀秀政などが草津湯治へ出向いた記録や、秀吉の妹・朝日姫の湯治の記録がある
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text:Tetsuya Uenaga illustration: Minoru Tanibata
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