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中世の“航路の歴史”
〈平安時代後期~戦国(安土桃山)時代〉
日本の海の道はどのように変化していった?

2025.8.10
中世の“航路の歴史”<br><small>〈平安時代後期~戦国(安土桃山)時代〉</small><br>日本の海の道はどのように変化していった?
『南蛮屏風』/ColBase

人々の暮らしを支えてきた「海の道」にかかわる日本の歴史をひも解く。中世では、荘園年貢をはじめ貢納物輸送に水運がひろく利用され、各地に港町が現れた。廻船かいせん(=商船)の活動がより活発になった室町時代には、通航の要路での海賊や倭寇(私貿易・密貿易商人集団)の活動も顕著に。平安時代後期~戦国(安土桃山)時代の航路の歴史に迫る。

監修=綿貫友子(わたぬき ともこ)
東北大学大学院文学研究科修了。大阪教育大学教授を経て現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。日本中世・近世の海上交通とそれを利用した流通を研究する。博士(文学)。

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中国との交易関係は武家政権次第!?

894年、遣唐使が中止されると、日本と中国の正式な外交は途絶えたが、民間商人による私貿易は続いていた。南宋により江南の開発が進み、経済活動の高まりとともに多くの宋船が来航。朝廷は交易港を博多に限定し、大宰府の管轄下で管理貿易が行われた。

一方、大宰府の干渉を排し、有力貴族や大寺社が有する九州北部沿岸の荘園内では非公式な貿易も行われた。利権に着目した鳥羽院司で院領肥前国神崎荘預所であった平忠盛は、貿易の独占を企てたとして大宰府から訴えられている。その子である清盛は、瀬戸内海航路を整備し、自身が別荘を構えた福原荘の外港・大輪田泊おおわだのとまり(現・神戸港)を修築して宋船を招致。日宋貿易の振興をはかった。その後の武家政権も日宋貿易以降、中断する時期がありながらも日元貿易・日明(勘合)貿易 などを通して中国と交易した。

(右から)皇宋通宝/ 日本銀行貨幣博物館所蔵 ,永楽通宝/ 日本銀行貨幣博物館所蔵 , 石州銀/ 日本銀行貨幣博物館所蔵

海の道を通して貨幣経済も渡来
日本では古代に「皇朝十二銭」と総称される12種の銭が公鋳されたが、958年の「乾元(けんげん)大宝」発行を最後に200年あまり、鋳造が途絶え、商品貨幣(現物)による交換経済が長く続いた。しかし、日宋貿易を介してもたらされた宋銭の利便性が注目され、朝廷の意図に反し、民間使用がなし崩し的に広まり、「皇宋通宝」や「永楽通宝」など渡来銭による貨幣経済へと推移することとなった。戦国時代には「石州銀」など一部の大名領国内で限定的に鋳造・使用されたが、中世を通じて政権による貨幣の公鋳は行われなかった

米・塩・材木が
廻船かいせんの主要積載品でした

縦挽き用の大鋸(おおが/おが)の伝来で大型部材の製材が容易になった15世紀には船が大型化。積載量、航行距離が拡大した 慈俊ほか
『慕帰繪々詞 10巻』/国立国会図書館デジタルコレクション

中世の廻船の主要積載物は米・塩・材木で、水路は重要な輸送路となった。特に瀬戸内海は、都への物流の大動脈として機能した。日本海東部沿岸の荘園からの年貢米は小浜津、敦賀津(現・福井県)で陸揚げされ、陸路と琵琶湖の水運とを接続して都へ運ばれ、東海・関東に点在する伊勢神宮領からの貢納物は、太平洋を経て伊勢湾の安濃津や大湊から神宮に運ばれた。

日本と世界をつなぐハブ
琉球王国

琉球王国は、日本や東南アジアなどの産品を中国に供給し、中国の産品を日本や東南アジアへ供給する中継貿易をほぼ独占した
『貢進船図・琉球船図』/ColBase

琉球王国は、明が民間商人の海上交易を禁じ(海禁)、朝貢関係にある国との間での貿易に限定した期間も、進貢して交易を続け、明も琉球を優遇した。これを足掛かりに日本や東南アジアとも積極的に交易を展開し、交易拠点・那覇には日本・中国・東南アジア諸国からの船が往来し、アジアの海上貿易のハブとして大いに繁栄した。

時代は南海路へ!
堺の発展と南蛮貿易

中世対外交易の主要航路図
明の海禁政策で貿易が制限されると、明と朝貢貿易を行っていた琉球王国や、中国・マカオを拠点にして貿易を展開したポルトガルとの中継貿易が活発に行われた

将軍の後継者問題に端を発するとされる応仁・文明の乱(1467~1477年)の背景には、瀬戸内海の制海権と日明貿易の利権をめぐる対立もあった。

兵庫津を拠点に瀬戸内海を通航していた遣明船は、乱による通航の支障を避けるために、坊津ぼうのつ(現・鹿児島県)・土佐沖を通る南海路を通航するようになった。発着地となった堺(現・大阪府)は琉球との交易も盛んで国際貿易港として発展した。16世紀半ば以降には南蛮貿易の拠点となり、経済力を背景に茶の湯や連歌など多彩な文化が花開いた。三方に防御のための濠をめぐらせた町は、豪商(会合衆)が主導し自治的な運営がなされた。

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シャビエル(ザビエル)も来た鹿児島の坊津
薩摩国の要港・坊津は、中世から近世には琉球王国や中国、東南アジア諸国と日本との貿易の中継拠点として栄えた
写真提供=鹿児島県観光連盟

 

〈江戸時代~明治時代〉
航路の歴史

 
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text: Discover Japan
2025年7月号「海旅と沖縄」

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