“北前船が運んだもの”
衣食住などの生活や文化を変えた海の大動脈!
寄港地で商品を売り買いしながら往来した北前船。食品や日用必需品から雑貨、豪奢品まであらゆるものを運ぶと同時に、寄港地の暮らしにさまざまな影響を及ぼした。
地域経済の発展、食や芸能など
新たな文化交流を生み出した北前船
北前船の別名である「千石船」は、米を1000石(約150t)積める大きさの船という意味だが、通常は500石から1500石ほどの大きさだった。そんな北前船の航路は、蝦夷島(北海道)と大坂の往復が基本。3月になると大坂を発ち、各地の港に寄りながら、4月末から5月に蝦夷島に到着する。そこで同地の産物を積み込み、8月頃に大坂を目指して出港。冬の海に変わる前に母港へと戻った。

蝦夷島から大坂へ運ばれるものを「上り荷」、大坂から蝦夷島へ運ばれるものを「下り荷」という。上り荷のほとんどはニシン、鰯、鮭などの干魚、塩魚、魚肥をはじめとする海産物。最大の商品はニシンでつくった魚肥で、瀬戸内で栽培される綿花や藍などの肥料として、高値で取り引きされた。下り荷としては、上方の酒や油、綿、古着などの衣類、瀬戸内の塩、砂糖、紙、蠟をはじめ、米、縄や莚、たばこ、鉄、畳表、漆器、薬、ひな人形など、ありとあらゆるものが運ばれた。
寄港地でこれらの物を売り買いしながら港と港を結んだ北前船は、日本海沿岸地域の物流を支えただけでなく、農漁業の生産力増大や地域経済の発展、食や芸能などの文化交流にも貢献した。2017年には「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」として日本遺産に登録されている。
実際に運ばれていたものとは?
〈ニシン〉

身欠きニシンとして食用にした身以外の部分(頭、背骨、内臓)でつくる「胴ニシン」と、ニシンを丸ごと煮て油を抜き、残った粕を発酵させた「ニシン粕」は、安価で良質な肥料として各地で飛ぶように売れ、農業を支えるとともに、大きな利益をもたらした。
〈塩〉

江戸時代初期に赤穂(現・兵庫県)ではじまり、瀬戸内海沿岸に広まった入浜塩田により大量生産が可能になった安価な塩は、どこの寄港地でも人気の品だった。蝦夷島では、それまで乾燥させていた鮭などの魚介を塩漬けにして保存できるようになった。
〈砂糖〉

江戸時代初期、砂糖は輸入品で大変貴重だったが、次第に国内でも生産され、後期には庶民にも広まった。北前船が運んだ阿波(現・徳島県)や讃岐(現・香川県)の三盆白(和三盆)、薩摩(現・鹿児島県)の黒砂糖は、各地の菓子や郷土料理の発展に貢献した。
〈畳表〉

当時、稲作が行われていなかった北海道には、当然ながら稲藁もなかったため、縄や草鞋、莚などの藁製品をはじめとする生活物資も運ばれた。藁は畳の材料にもなるが、い草でつくった畳表も「下り荷」で重宝された商品のひとつだった。
〈綿〉

亜熱帯~熱帯の植物である綿花は、寒冷地である北陸や東北では栽培することが難しいため、栽培が盛んだった西日本各地から「下り荷」として綿が運ばれた。その綿花栽培で重宝されたのが「上り荷」で運ばれるニシンでつくった胴ニシンやニシン粕といった肥料だった。
〈古着〉

上方の古着は、綿花が育たない北陸や東北で人気だった商品のひとつ。日本海沿岸地域には、古着を糸状に裂いて緯糸にし、新たな布に再生する「裂織」や、着物をほどいた木綿生地を重ねて木綿糸で縫い合わせる「刺し子」などの技法が残る。
〈藍玉〉

江戸時代、衣料として普及しはじめた木綿布との相性のよさから庶民の間で藍染めが広まり、需要が高まった。徳島藩の吉野川流域の「阿波藍」が有名で、阿波廻船によって主に大坂や江戸に運ばれた。藍栽培には「上り荷」で運ばれるニシンの魚肥が用いられた。
〈干鰯〉

油を抜いた鰯を日干しで乾燥させてつくる肥料。北前船で北陸や東北から運ばれ、綿花や藍など商品作物栽培の肥料として利用された。松前物と呼ばれるニシン粕が大量に出回るようになった幕末まで、金肥(農家が購入する肥料)として重要な役割を果たした。
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01|「航路の歴史」とは?
02|太古~平安時代前期
03|平安時代後期~戦国(安土桃山)時代
04|江戸時代~明治時代
05|北前船の主要ルートとは?
06|北前船はなぜ儲かった?
07|「10人の北前船主」【前編】
08|「10人の北前船主」【後編】
09|北前船が運んだもの
text: Miyu Narita illustration: Honoka Yoshimoto
2025年7月号「海旅と沖縄」































