TRADITION

我が道を突き進んだ
「10人の北前船主」
開拓者、大地主、実業家……【後編】

2025.8.12
我が道を突き進んだ<br>「10人の北前船主」<br><small>開拓者、大地主、実業家……【後編】</small>

「一航海千両」といわれるほどの利益を上げた北前船。命を懸けた航海をも恐れない気概と商売の才覚を生かし、富豪に上り詰めた船主たちがいた。

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〈越前〉金融業や鉱業に進出した実業家
「大和田荘七」

2代目大和田荘七肖像写真
写真提供=敦賀市博物館

1857年生まれ。北前船主だった初代荘七に見込まれて22歳で大和田家の養子となり、1887年に2代目を襲名した。1892年には「大和田銀行」を設立。敦賀港の国際貿易港指定に尽力するなど、越前地域の経済発展に貢献した。1900年には「敦賀貿易汽船会社」を設立して貿易業へ進出。北海道では炭鉱業に乗り出して1908年に「大和田炭鉱会社」を設立するなど、福井県を代表する実業家となった。

Profile
本拠地|敦賀(福井県)
北前船経営の開始時期|1850年代
最多所有帆船数|4隻

〈武蔵〉北へ北へと商いを広げた江戸商人
栖原角兵衛すはらかくべえ

6代目栖原角兵衛肖像写真
写真提供=函館市中央図書館

江戸の材木問屋「栖原屋」は、18世紀後半に材木を求めて下北半島に支店を設けていたが、5代目角兵衛のときにそこを閉めて蝦夷島に進出。1785年に松前城下に材木問屋と海産物問屋を兼ねた店を出した。6代目からは商場請負にも進出し、日本海沿岸だけでなく太平洋沿岸地域の交易も請け負った。18世紀後半からは手船も所有するようになり、大坂に北海産荷受問屋を、江戸に海産物問屋を開いた。

Profile
本拠地|江戸(東京都)
北前船経営の開始時期|19世紀初頭
最多所有帆船数|10隻

〈近江〉北前船のルーツ・近江商人の象徴
「住吉屋伝右衛門でんえもん

小樽市総合博物館の住吉屋が復元された展示スペース

初代伝右衛門は近江の生まれ。呉服類を北陸・奥羽に行商する中で、蝦夷島での商売の利を聞き付け、寛文年間(1661~1673)に松前に出店。当地で大きな勢力をもっていた近江商人の組織「両浜組」に加入した。18世紀には商場請負にも進出。小樽に隣接する忍路おしょろ場所、高島場所などを請け負うとともに、自身の船で産物を敦賀・大坂・兵庫に運び巨利を得た。苗字帯刀を許されてからは西川姓を名乗った。

Profile
本拠地|八幡(滋賀県)
北前船経営の開始時期|18世紀後半
最多所有帆船数|9隻

〈淡路〉蝦夷地で栄えた最大の北前船主
「高田屋金兵衛」

高田屋の辰悦丸の模型
写真提供=高田屋嘉兵衛資料館

蝦夷地開発に貢献し、ロシアとの交渉にも尽力した高田屋嘉兵衛の弟。幕府による蝦夷地直轄で廃止された場所請負が再開されると、「高田屋」は1810年から択捉場所と幌泉場所を、1815年からは根室場所を請け負った。1822年に嘉兵衛の跡を継いだ金兵衛の時代に全盛期を迎えたが、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられた結果、1833年に松前藩によって取りつぶされた。

Profile
本拠地|箱館(北海道)
北前船経営の開始時期|1795年頃
最多所有帆船数|38隻

〈阿波〉地域の特産物廻送に注力した
「山西庄五郎」

山西家の引札
写真提供=徳島県立文書館

入浜式製塩が盛んだった阿波(現・徳島県)の撫養は、徳島と並ぶ主要港でもあったことから、藩の特産物である塩と藍を扱う廻船問屋が成長した。山西家もそのひとつ(1823年に初代が開業した当時は和泉屋源十郎と称した)。1830年代には手船を所有して藍玉や塩、藍栽培用の魚肥などを扱った。海運以外に土地取得も進め、酒造、醤油醸造を手掛けるなど、阿波を代表する商家となった。

Profile
本拠地|撫養(徳島県)
北前船経営の開始時期|1830年代
最多所有帆船数|7隻

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text: Miyu Narita
2025年7月号「海旅と沖縄」

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