TRADITION

近代までの“航路の歴史”
〈江戸時代~明治時代〉
日本の海の道はどのように変化していった?

2025.8.10
近代までの“航路の歴史”<br><small>〈江戸時代~明治時代〉</small><br>日本の海の道はどのように変化していった?
広重三代『大日本物産図会 摂津国 新酒荷出之図』/国立国会図書館デジタルコレクション

人々の暮らしを支えてきた「海の道」にかかわる日本の歴史をひも解く。東廻り・西廻り航路をはじめ、各地と江戸を結ぶ全国的な海運網が整備された。特に日本海側では、明治時代まで「北前船」が活躍。江戸時代~明治時代の航路の歴史に迫る。

取材協力=中西 聡(なかにし さとる)
参考文献:『北前船の近代史―海の豪商たちが遺したもの―』(中西聡著、成山堂書店)、『週刊 新発見!日本の歴史 18号』(朝日新聞出版)、『日本経済の歴史―列島経済史入門―』(中西聡編、名古屋大学出版会)

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江戸の消費を支えた太平洋の道

参勤交代制度などにより人口が密集した江戸は、日本最大の消費都市。関東地方の生産物だけでは賄いきれないその需要を満たしたのが、大坂から太平洋を通って江戸へ向かう南海路の海運だった。川と海の水運により古くから商業と流通の中心地として栄え、全国から物資が集まる日本最大の集積地だった大坂から、樽酒、油、塩、衣類などさまざまな日用必需品、豪奢品が運ばれた。

樽廻船に樽酒を積み込む様子。競合を防ぐため、菱垣廻船と樽廻船との間で、樽廻船が運ぶものを樽酒と米など7品に限定する協定が結ばれたが守られなかった
広重三代『大日本物産図会 摂津国 新酒荷出之図』/国立国会図書館デジタルコレクション

当初は菱垣廻船という大型の荷船が定期運送していたが、後に樽酒のみを運ぶ樽廻船が登場。さまざまな品を積むため出港までに時間がかかる上、各地の港に寄って積み降ろしをしながら進む菱垣ひがき廻船と異なり、酒が傷まないように江戸へ直行した樽廻船は小型で速く、運賃も安かった。そのため次第に樽廻船が主流となり、菱垣廻船に取って代わった。

世界に開いていた鎖国時代の4つの口

江戸幕府は1641年にオランダ商館を平戸(現・長崎県)から長崎の出島に移転。いわゆる鎖国体制が完成したが、実際には幕府が限定した長崎口、対馬口(現・長崎県)、薩摩口(現・鹿児島県)、松前口(現・北海道)が外交窓口として残された。これらを合わせて「4つの口」という。幕府から奉行を派遣する直轄地であった長崎以外はいずれも、中世以来、当地で対外関係を担ってきた対馬藩の宗氏、薩摩藩の島津氏、松前藩の松前氏が管轄した。

松前口 主な取引相手:蝦夷島の商場請負人とアイヌ民族
主な輸入品:塩、砂糖、い草、綿、古着など
主な輸出品:ニシンなど
長崎口 主な取引相手:江戸幕府と中国船・オランダ船
主な輸入品:生糸、絹織物、薬種、砂糖、香料
主な輸出品:銀、銅、俵物など
対馬口 主な取引相手:対馬藩と朝鮮船
主な輸入品:朝鮮人参など
主な輸出品:金、銀など
薩摩口 主な取引相手:薩摩藩と琉球王国
主な輸入品:砂糖、硫黄など
主な輸出品:日本刀、鉄など

蝦夷島開拓のパイオニア
高田屋嘉兵衛の冒険

6人兄弟の長男として生まれた嘉兵衛は、兄弟たちと「高田屋」を立ち上げて蝦夷島へ進出。1822年には経営を弟の金兵衛に譲って郷里の淡路に帰り、晩年を過ごした
写真提供=函館市

1769年、淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛は、1796年に蝦夷島(北海道)に進出。当時、江戸幕府が開発を計画していた箱館を拠点としたことが縁で、幕府お抱えの船頭に。また択捉えとろふ航路を開発し、新たな漁場を開くなど開拓者としても功績を残した。国後くなしり島に上陸したロシア艦長が日本の警備兵に捕えられる「ゴローニン事件」が起こった翌年の1812年には、航行中のところをロシア艦に拿捕だまされ、カムチャツカに連行抑留されたが、自力でロシア側と交渉し、両国の仲介役として和解を成し遂げた。

蝦夷島開拓の歩み

1778年 ロシア船が厚岸に来航
1785年 最上徳内が蝦夷島を調査
1792年 ロシア使節ラクスマンが根室に来航
1798年 近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を設置
1799年 高田屋嘉兵衛が国後島と択捉島間の航路を開拓
1807年 蝦夷全島が幕府直轄となる
1812年 高田屋嘉兵衛がロシア船に捕まる
1854年 日米和親条約で、箱館奉行が置かれる
1869年 開拓使が設置され、「北海道」に

日本海の物流を支えた
“海の専門商人・北前船”

兵庫県赤穂市の港町・坂越(さこし)。江戸時代には瀬戸内海有数の廻船業地だった。赤穂各地でつくられた塩が坂越に集まり、塩廻船で江戸へ、北前船で全国各地へ運ばれた
©Tomoaki Okuyama

18世紀後期から19世紀にかけて、日本海と瀬戸内海を経由して蝦夷島と大坂、江戸を結ぶ航路で特に活躍したのが「北前船」。本州・四国・九州などを拠点とする商人船主の船で、日本海沿岸の寄港地でさまざまな物資を売買しながら、大坂と蝦夷島を往来した。

本州からは米や塩、綿、衣類などあらゆる品を、蝦夷島からはニシンなどの海産物を運び、日本海沿岸の物流を担った。各寄港地に経済的な繁栄をもたらすとともに、各地の情報や文化、芸能が船乗りを通じて広がることで文化交流の役割も果たした。

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日本海沿岸には、北前船が天候の回復などを待つ「風待ち港」が多数あった。写真は、風待ち港のひとつだった深浦(現・青森県)の円覚寺に、北前船の船乗りたちが奉納した絵馬
©Kazuya Hayashi

text: Miyu Narita
2025年7月号「海旅と沖縄」

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