京都《大原野神社》紫式部が訪れた
“京の春日さん”【前編】
|源氏物語ゆかりの定番名所①
定番の名所である、長岡京遷都の際、春日大社の分霊を歓請したことにはじまり、文徳天皇によって社殿が造営された大原野神社をご紹介。
一条天皇など多くの天皇が行幸し、藤原氏の氏神として紫式部も心を寄せていた場所とは?
紫式部も訪れた藤原氏ゆかりの社
京都市西部の小塩山東麓に広がる大原野は、いまでこそのどかな片田舎の風情をたたえるが、かつてはこの地方で最も早く開けた場所とある。
約8万3000㎡の境内を有する大原野神社は、784年の長岡京遷都の折に、奈良の春日大社の分霊を勧請したことにはじまる。春日大社は、藤原氏の氏神として信仰を集め、都が京都へ移ったことで、皇后の参拝が不便になったことから、ご祭神を移したといわれている。
この場所が選ばれた理由を、宮司の齋藤昌通さんはこう推察する。「春日大社も都の中心部から離れた傾斜地にあったので、同じような環境を求めて大原野一帯を見て歩かれたのではないでしょうか。小塩山のふもとは春日大社の趣と重なるところがあったのかもしれません」。
社殿は平安遷都から約60年を経た850年に、左大臣藤原冬嗣の孫にあたる文徳天皇によって造営されている。建築様式は春日大社に倣った檜皮葺丹塗りの春日造。
連なる4棟に建御賀豆智命、伊波比主命、天之子八根命、比咩大神を祀り、社殿のサイズは春日大社より小さいものの、緑を背にした雅趣がひと際目を引く。現在の社殿は後水尾天皇が慶安年間(1648~1652)に再建している。
紫式部が郷愁に浸った大原野
大原野神社は、藤原氏の氏神三社のひとつに数えられ「京の春日さん」の愛称で親しまれている。境内は創建当初から大きく変わっていないと見られるが、一の鳥居は現在より離れた場所にあった。
「交通量が多くなった影響で現在地に移しましたが、かつてはいまほど住宅もなく、田園に一の鳥居が大原野神社の象徴のように立っていました」と齋藤さんは振り返る。
そこから本殿へ向かい、長い傾斜地を行く道を、一条天皇をはじめ多くの天皇の行幸のご一行も通っている。御祭神の元へ足を運ぶ参拝には特別な意味と思いがあり、『源氏物語第二十九帖・行幸』などでも描かれている。中宮・彰子が大原野神社に行啓した際には、紫式部もお供したといわれている。
紫式部にとってもここは郷愁を誘う特別な場所。父・藤原為時の越前国府赴任に伴い都を離れたときには、遠く越前の地で見た冬の日野岳に、大原野の小塩山を重ねて歌を詠んだ。
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる」。日野岳の杉が雪に埋もれる景色を見たとき浮かんだのは、小塩山にちらちらと雪が降る都の冬。大原野は、紫式部の心のどこかに、いつもあったことがうかがえる。
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紫式部が訪れた「京の春日さん」【後編】
大原野神社の見どころに迫る!
《大原野神社年表》
768年 春日大社が平城京の東に鎮座
784年 桓武天皇が長岡京に遷都の際、大原野神社に春日大社の神を勧請
850年 藤原冬嗣を祖父にもつ文徳天皇が社殿を造営
851年 はじめて勅祭(大原野祭)が行われる
1005年 中宮・彰子の行啓に藤原道長、紫式部らがお供をする
1717年 神相撲の神事がはじまる
1871年 官幣中社に列せられる(戦後に打ち切り)
《大原野神社に祀られている四柱》
建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)
建御名方神(たけみなかたのかみ)と並ぶ相撲の元祖。出雲の神である建御名方神と力比べをしたことが、相撲の起源とされている
伊波比主命(いわいぬしのみこと)
別名経津主神(ふつぬしのかみ)とも。千葉県の香取神宮に祀られる武功の神で、大国主神(おおくにぬしのかみ)から国を譲られた
天之子八根命(あめのこやねのみこと)
中臣氏の祖神で、天孫降臨にかかわり神事の守護者とされる。中臣氏の子孫である藤原氏の氏神として祀られている
比咩大神(ひめおおかみ)
天之子八根命の妻であり、天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)と伝えられている。夫婦円満などのご利益がある
text: Mayumi Furuichi photo: Takuya Oshima
Discover Japan 2024年11月号「京都」