第100代「後小松天皇」
|20人の天皇で読み解く日本史
126代目の天皇が誕生した2019年。今も昔も日本の歴史は天皇がつくってきたといっても過言ではありません。天皇に焦点を当ると、これまでとは違う日本の姿が見えてくるはず。今回は、長きにわたる内乱のすえに南北朝合一を果たした人物、後小松天皇を紹介します。
第100代 後小松天皇(ごこまつてんのう)
生没年|1377–1433年
在位|1382(6歳)–1412(36歳)年
父|後円融(ごえんゆう)天皇
母|三条厳子(さんじょうたかこ)
妻|日野資子(ひのすけこ)
約60年続いた内乱を経て
南北朝の合一を果たす
世は足利氏全盛。1382年、後小松天皇が即位すると、足利義満が守護勢力を抑え、朝廷の権力をも掌握すると、南朝に対して以下の3条件を提示した。①後亀山天皇は譲位し、三種の神器を後小松に渡す。②皇位は南朝と北朝の両統迭立とする。③諸国の国衙領は大覚寺統(南朝)、長講堂領は持明院統(北朝)の支配とする。
南朝の後亀山天皇は、これを受諾。三種の神器が後小松天皇の御所に移され、合一。南北朝時代が終わりを告げる。このとき南朝の年号を廃止し、北朝の「明徳」が存続したことを考えると実質的には南朝の滅亡と考えられる。実際、条件にあった両統迭立の約束も果たされず、皇統は後小松天皇の系統で受け継がれることとなる。
後小松天皇は譲位後も院政を続ける。室町幕府3代将軍・義満の全盛期で朝廷も安定していた。義満は明との貿易を行うため、対外的に「日本国王」の称号を賜り、朝貢貿易によって莫大な富と権力を手にしていった。
Point1
3代目将軍足利義満は、なぜ「日本国王」に?
明から「日本国王」の称号を贈られた義満だが、国内では使用していない。国のトップを狙っていた見方もあるが、臣下の立場では明との貿易ができなかったために、便宜上用いた名義の可能性が高い。
〈天皇ゆかりの地〉
後小松天皇の子、一休さんの寺
「酬恩庵 一休寺」
一休宗純が再興し、生涯を過ごした。一休宗純は後小松天皇の子であるとされることから、その墓所は宮内庁が御陵として管理。
酬恩庵 一休寺
住所|京都府京田辺市薪里ノ内102
Tel|0774-62-0193
www.ikkyuji.org
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supervision: Hirofumi Yamamoto text: Akiko Yamamoto, Mimi Murota illustration: Minoru Tanibata
Discover Japan2019年6月号「天皇と元号から日本再入門」