FOOD

〈うすいはなこ監修〉
江戸時代の食事から見えてくる
サステイナブルな文化
未来の食を考えるヒントは江戸時代にあり!【後編】

2025.7.8
<small>〈うすいはなこ監修〉</small><br>江戸時代の食事から見えてくる<br> サステイナブルな文化<br><small>未来の食を考えるヒントは江戸時代にあり!【後編】</small>

江戸の街の人々はどのようにしてサーキュラーエコノミーを実践していたのか。当時の生活の様子から、その術を探っていこう。

監修・料理=江戸料理 料理人 うすいはなこ
東京都生まれ。設計の仕事を経て、日本料理店で修業後、独立。江戸料理料理人、出張料理人、干物研究家などとして幅広く活躍。食にかかわる季節の手仕事を伝える「食卓をつなぐ会」主宰。著書に『干物料理帖』(日東書院本社)。

江戸の人は
旬を大切にしていた。

江戸時代の定番朝食メニューは白飯、振売(行商人)から購入した納豆とネギなどのセットを使った納豆汁、ぬか漬け。一品二品のおかずがあればごちそうで、めざしは贅沢品だった

「江戸の人は旬の食材を食べることに労力を注いでいました。旬の食材は春夏秋冬で人間が必要とする栄養を多く含んでいますが、自然とそれを摂取できていたのでしょう」。初物も好んで食べていたといい、「初鰹は女房を質に入れても食え」ということわざにもなった初鰹は、江戸っ子の粋の証しでもあった。

米は藁、ぬか、もみまで
余すことなく。

©宮崎安貞著ほか『農業全書 11巻』/国立国会図書館デジタルコレクション

精米技術の向上により、庶民にも白米が広がっていった江戸時代。ところが玄米食で摂取できていたビタミンB1が精米によって取り除かれてしまい、「江戸わずらい(脚気)」が発生してしまう。「そこで足りないビタミンを補うため、庶民の食卓にぬか漬けが並ぶようになったのです。稲藁やもみ殻は日用品に、精米時に出る種皮や胚芽はぬかに、研ぎ汁は田畑にまいていました」

循環経済の礎のひとつに、
日本橋の河岸あり。

©一立斎広重『東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図』/国立国会図書館デジタルコレクション

徳川家康は五街道の整備に加え、物資の運搬や水田開発に寄与する大規模な水路整備を行った。この治水事業によって栄養豊富な山の伏流水が川を流れ、江戸内湾の幸を育んでいったという。「家康は縁のあった摂津国西成郡佃村(現・大阪府大阪市西淀川区)の名主・森孫右衛門一族と漁師らを江戸に呼び寄せ、江戸内湾の漁業権を与えました。彼らが日本橋につくった河岸は新たな経済の場となっていったのです」

三里四方は健康にもよかった?

©喜田川季荘編『守貞謾稿巻6』/国立国会図書館デジタルコレクション

人々の腹を満たしたのは三里四方(半径約12㎞以内)の食材が中心であったという。「重視されたのは鮮度です。その理由は『生鮮は精がつく』と考えたことに加え、シンプルに美味しいから。振売が新鮮な食材を売り歩いていた影響も大きいですね。主に江戸内湾で捕れた魚、近郊農村で栽培された野菜や米を食していました」

調理も、その後も、
地球にやさしい。

長屋の大家が管理するかわや(便所)にたまった排泄物は、農作物の貴重な肥料となったため、専門の仲買人に販売されていた。「排泄物を有効活用するシステムは、江戸で最も大事なサステイナブルだと思っています」。各家庭のかまどに残った灰も肥料などに活用され、「灰買い」が買い集めていたという。

江戸は、消費地であり、
資源の一大産地でもあった。

享保期には人口100万人を超え、「世界一の大都市」となった江戸の街。人口に対する資源の需要と供給が、絶妙なバランスで成り立っていたと考えられる。「江戸の人の排泄物が肥料となり、その肥料で育った農作物を江戸の人が食べる。この循環のバランスは、奇跡に近いものでした」

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江戸時代に学ぶ未来の食
01|“食のサーキュラーエコノミー”は約400年前から!?
02|江戸の暮らしから見るサステイナブルな文化


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text: Nao Ohmori photo: Kenji Okazaki
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