おばんざい、京の腰抜けうどん、京の花見…。
柏井壽に学ぶ《京都の心を知るための22のことば④》
「おいでやす」、「おこしやす」……。京都を訪れると耳にするはんなりした言葉。何気ない言葉に秘められた本当の意味を、京都で生まれ育った柏井さんに教えてもらいましょう。
選・文=柏井壽(かしわい・ひさし)
1952年京都生まれ。大阪歯科大学卒業後、京都市北区で歯科医院開業。一方で、『京都』『日本旅館』『食』をテーマとするエッセイ、小説を執筆。近著に「鴨川食堂おまかせ(小学館文庫)」「京都に行く前に知っておくと得する50の知識(ワニブックス)」がある。
「おばんざい」
「京都に来たなら、一度は食べたい〈おばんざい〉。どこが一番美味しいですか?」
何度そうたずねられたか、数えきれないほどです。僕の答えはいつも同じです。「〈おばんざい〉の美味しい店など知りません」
僕だけではないでしょう。古くからの京都人なら、皆さん、そういわれると思います。
〈おばんざい〉というのは、家庭で食べる質素なおかずのことをいい、お金を出して、店で食べるものではないからなんです。いつの頃からか、京の街中には〈おばんざい〉の文字があふれ出しました。さも京都名物のようにして、〈おばんざいバイキング〉だとか、〈おばんざい定食〉なるメニューを売り物にする店が目につきますが、これはあくまで、観光客向けの料理であって、京都人がこういう店で食事することはないはずです。〈おばんざい〉という言葉のイメージだけが独り歩きしているのです。
「京の腰抜けうどん」
京都のうどんは美味しい。そういって、人気のうどん屋さんの長い列に並ぶ観光客が多くみられます。
「けど、それ、京都のうどんと違いますえ」
昔からの京都人は、そう口を揃えます。
専用の道具を使って切らねばならないような、コシのあるうどんは、昔からの京都のうどんではありません。そもそも京都のうどんは、麺ではなくだしが主役なんです。だしが染み込みやすいように。歯のないお年寄りでも、歯ぐきで噛み切れるように、というのが、京都のうどんです。コシがないからこそ、だしをじっくり味わえるのです。
食というのは、人それぞれ好みがありますから、コシのあるうどんを求めて並ばれるのは結構なことですが、それを〈京都らしいうどん〉とだけは思わないでください。京都のうどんは昔から〈腰抜けうどん〉といわれるほど、コシがないのですから。
「鴨川と賀茂川」
「『上賀茂神社』から鴨川を下って、『下鴨神社』へ行った」
こんな文章を見かけたら、すぐにチェックを入れたくなるのが京都人です。どこにチェックを入れるかわかれば、あなたは京都通を自負してもらっても大丈夫です。細かなことですが、京都の街中を北から南に流れる〈鴨川〉。高野川と出合うまでは〈賀茂川〉と表記するのが、京都の慣わしなのです。あくまでこれは慣わしでしかなく、河川法からすれば、賀茂大橋から北の流れも〈鴨川〉でいいのです。冒頭の文章は、何も間違ってはいません。
ささいな違いといってしまえば、それまでのことですが、京都の人々は、たったひと文字であっても、そのイメージを大切にします。〈鴨〉と〈賀茂〉では、川の空気感が異なるのです。ほかにも、春を告げる花街の踊りは〈をどり〉と書きます。祇園は〈都をどり〉、先斗町は〈鴨川をどり〉。宮川町だけ〈京おどり〉です。
「門掃き」
きれい好きなのかどうかはわかりませんが、京都の街を歩いていると、家の前をほうきで掃く姿をよく見かけます。京言葉でいうところの〈門掃き〉です。古い家が多いですから、汚らしく見えないように、との配慮もあって、朝な夕なに家の周りを掃き清めます。
これは子どもの役目でもあって、小さい頃から、〈門掃き〉を厳しくしつけられます。そしてそのときに教わるのが、お隣さんとの関係。隣の家の前、三尺といいますから1メートル弱まで掃く。それ以上だとお節介が過ぎて嫌みになり、境界ギリギリだと水くさく思われる。その頃合いが三尺。
これは実に見事に、京都人同士のつき合いの距離感を表しています。ご近所づき合いは大事にしますが、決して相手の懐深くにまでは入りこまない。だからこそ長続きするのです。店と客も同じだということも付け加えておきます。
「予約と行列」
思い立ったが吉日、というわけでもありませんが、何日も前から食事処の予約をするのは、京都人の苦手とするところです。少し前までは、どんなに人気のある店でも、2、3日のうちには予約が取れたものですが。何日どころか、何カ月も先にならないと予約できない店からは、京都人の足が遠のきます。と同じように、長い列をつくってまで食べることをよしとしないのが京都人です。
したがって、予約困難な店や、長い行列のできる店に、地元京都人の客は居ないに等しいと思ってください。もちろん京都人も美味しいものを食べるのは大好きですが、そのために無駄な時間を費やしたり、そのことに縛られるのが嫌なのです。
京都には食以外に魅力的な場所やモノがたくさんあります。旅先での貴重な時間は、そのために使ってほしいなと思いながら、行列を横目で見るのが京都人です。
「京の花見」
桜のシーズンともなると、日本各地から〈お花見便り〉なるものが届きます。桜並木の下にブルーシートを広げて飲めや歌えやの大騒ぎ。
京都ではしかし、この手の〈お花見〉はやりません。円山公園や鴨川の堤で、ブルーシートを広げているのは、他都道府県からの学生さんか、遠征組でしょう。桜は静かに見るべきもので、騒ぎ立てるものではない、というのが昔からの京都人の美学です。群れた桜もあまり好みません。
街角や山里の一本桜に心魅かれることはあっても、桜並木の下に座り込むことはしません。歩きながら桜を見上げるのが好きなのです。もみじも然りです。寺でライトアップされた、そんな派手なもみじではなく、水辺にその紅を、ほんのり映すような侘びたもみじを愉しみます。桜ももみじも、あるがまま、京の自然に包まれて、長く生きてきた木を愛してやまないのです。
illustraion : Takako Shukuwa special thanks : Motoe Fuk
Discover Japan TRAVEL 2017年号『プレミアム京都』