TRADITION

【第5回】蓑虫山人の東北漫遊日記
「蓑虫山人のすべらない話」
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.8
【第5回】蓑虫山人の東北漫遊日記<br>「蓑虫山人のすべらない話」<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>
岩手と秋田の県境、朝もやから登場する蓑虫山人。ドラマチックに自分を描く 『蓑虫山人画記行』(部分)/ 秋田県立博物館所蔵

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第5回は、各地の景勝地を絵に描いて、文人仲間や世間に紹介し、広め、まるでインフルエンサーのようだった蓑虫山人。そんな彼の絵日記たちを紹介。

蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー

気に入った場所があれば、茶を点て一服。蓑虫山人の旅のスタイルに憧れる 『蓑虫山人画記行』(部分)/秋田県立博物館所蔵

蓑虫、二度目の東北である。
明治20年9月4日、岩代国(現在の福島県の西側)から東北に入る。山形県鶴岡を経由して、この年中に秋田まで北上し、そのまま明治23年の3月までのほとんどを秋田県内で過ごすことになる。

蓑虫は各所に拠点となる(ごやっかいになる)家を決めてそこを中心に地域を見て回っていた。秋田県能代市でのその拠点のひとつだった山本家を訪ねる。現在の当主、山本達行さんに蓑虫にまつわる逸話をうかがうことができた。

「蓑虫はこの地に滞在中、同じ町内の長徳寺の庭園と、近くの山の上にある私たち山本家の墓地庭園を造園していきました。造園中は現場に蓑虫庵と自ら名づけた小さな庵をつくり、食べ物は米と味噌と身欠きニシンがあればいいと言って頓着せずに何日も籠っていたのですが、下男たちに指示して重い石を担がせたまま熟考するため、皆困ったそうです」

現在の山本家には、蓑虫お得意の画題である寒山拾得の掛け軸と、扇子に描いた『百老琴碁書画』という絵と直筆の封筒と手紙が残されている。
「お借りしていた1円を送ります。もしお留守であれば先方に送金してください。送料は私のほうで負担します」

封筒の中にはそのとき借りていた1円札もそのまま残されている。なぜそのままその1円が残されていたのかはわからないが、蓑虫、その生活と変人ぶりからは想像できないほどお金には律儀だったようだ。旅の中の何度かの借金も、その代わりに自分の持っている貴重な書を返礼として渡していたりしている。絵を描き謝礼をいただくことも多かったが、その相場は良心的(※1)。お金に意地汚いという話は調べたところ一つも出てこなかった。

蓑虫山人のすべらない話
「家庭生活というものを一度体験してみたかった」

『津軽富士百景』という名前でまとめられた絵日記から。見よこの傍若無人な斎藤清七の痴態。部屋の中で、2階から小便をまき散らしている。これはひどい。よっぽど腹に据えかねたのか蓑虫は清七のことを、こうこき下ろしてる「屁ヒリテ臭ミヲ知ラヌ津軽者トハコノコトカ」

今回はいくつか東北での蓑虫のエピソードを披露しようと思う。どれも味わい深いので、ぜひ知ってほしい話ばかりだ。

蓑虫は最後まで旅の中で過ごし、ほとんど色恋や好色な話などは残っていない。結婚もすることも、子を残すこともなかったのだが、実はここ秋田の能代で家庭をもったことがあった。いや「家庭体験」といったほうがふさわしいのだが……。

明治20年、21年頃の話だろうか、その家庭体験の相手は村木スギという女性。蓑虫も世話になっていた表具師・村木惣四郎の未亡人だ。夫が病に倒れ急逝してしまった村木家は困窮し、それを見かねた蓑虫は45日間スギとその二人の子どもと生活をともにし、揮毫など(※1)または自身の持ち物を売却)を積極的に行い村木家に貢いだのだ。スギは昭和13年没、87歳まで生きた。蓑虫は後に「家庭生活というものを一度体験してみたかった」(蓑虫仙人の伝、中村秋香)と、おもしろ話として語っていたようだが、事実はもう少し人情味にあふれていたのかもしれない。ほかにも青森県の鰺ヶ沢に彼女がいたという話が地元に残っていたようだが、真偽は定かでない。

青森での話も多い。少しさかのぼり明治15年頃、当時蓑虫は宮内庁の知り合いを通じて、長慶天皇の古墳の調査をするために浪岡に滞在していた。同じ頃、政府の高官である三条実美(明治22年には内閣総理大臣に任命される)が、天皇陛下の東北巡幸のための実地調査のため東北を訪れていたことがあった。実美はこの地で蓑虫山人の話を聞き、会ってみたいと蓑虫を呼び出したことがあった。そのときのエピソードも奮っている。

いつもの着崩した半僧半俗の着物と変な帽子(※2)であぐらを組みどっかりと座り、三条実美と対面する蓑虫。実美はもともと公卿でもあり天皇に次ぐ高貴な血筋の人物、御付きの者が当然蓑虫を注意する。しかし蓑虫「呼ばれたのはこちらだ。気に入らないなら帰るよ」と、言い放つ。さらに「百人一首のカルタを見てみろ、みんな胡座だぞ」と傲岸不遜。少し前ならあっという間に切り捨てられるであろう案件ともいえる。が、それを聞いた実美が笑って「まあよい、そのままで結構結構」と、なったということが伝えられている。

こんな出来事もあった。青森県中泊での蓑虫、いつものように地元の連中との宴席で、頼まれて、今生天皇との書を書く。床の間に飾ったところ戸長の斎藤清七という人物が、酒に酔い天皇批判をはじめる。その狼藉甚だしく、しまいには部屋の中や窓の外に向けて小便をし出す始末。腹に据えかねた蓑虫は愛用品の1mを超える長煙管で清七の股間を打ってしまった。打ちどころが悪く卒倒し気を失う清七。運の悪いことにその宴席に警察官がいたため蓑虫は捕まってしまう。

この話は紙芝居のように絵日記に描かれている(上記:津軽富士百景)のだが、その顛末を悪口だらけの文章にしているページもありすこぶる楽しい。とはいえこの「しょんべん事件」で蓑虫も反省したようで、股間を打ちつけた自慢の長煙管を中泊の神社に奉納してしまったという(火災により焼失)。

秋田青森ときたら岩手での話も紹介しておきたい。韓人の権東寿と権在寿兄弟にまつわるエピソードだ。明治25年7月10日の東京日日新聞ではこんな見出しが躍っていた。「暗殺者入京の噂」︱︱記事はこう続く。「韓客権東寿なるもの、刻下東海道の旅にあり。彼、大院君(当時の李氏朝鮮国王である高宗の父)の命を受け、金玉均(朝鮮の近代化を目指した活動家)を暗殺せんがため入京するものなりと」。暗殺者が入国という記事が新聞に書かれているのも驚きだが、その暗殺者と何やら楽しそうにしている蓑虫もどうかしている。結局、権兄弟の指示によってこの暗殺は後に成功し、兄弟は逮捕される(証拠不十分のため釈放)。そしてこの事件は明治27年に起きる日清戦争の導火線となる。

山本家(上写真)に残された2枚の絵と手紙と一円札(下写真)。内容は「お手紙を差し上げます、寒くなりましたが御安奉の由、お慶び申し上げます。昨年はいろいろとありがとうございます。預けておいた軸など使者に渡してください。近々扇田村でお会いできると思っていましたが、ただいま入り用になりましたのでよろしくお願いします」。達筆過ぎてまったく読めない

インフルエンサーだった蓑虫
キラキラとした投稿ばかりする インスタグラマーとなんら変わらない。

出典:『気仙沼市史』(気仙沼市史編さん委員会/編)
潮吹き岩を遊覧するこの絵に描かれた何人かの人物の一人に、漫才コンビ「サンドウィッチマン」の伊達みきおの先祖・伊達翠雨(すいう)がいる
出展:『岩手を旅した絵師の足跡』(岩手県立博物館編)/原資料=長母寺所蔵
右側は蓑虫、そして左の二人の人物が、韓人の権東寿(中央)と権在寿(左)兄弟だ。この絵日記が書かれたのは明治27年1月2日。絵日記の上部の文字はこんな意味のことが書かれている。「同じ書を嗜む文人同士、国は違えど楽しいな」ずいぶん呑気な話だ

蓑虫が世間に紹介した場所がある。
「猊鼻渓」、岩手県一関市の砂鉄川沿い、日本百景にも数えられ、船頭の猊鼻追分を聴きながらの舟下りで人気の名勝だ。筆者も乗ってみたが、なかなか楽しいひとときだった。蓑虫は地元の名士・佐藤猊巌に頼まれ、猊鼻渓(当時は特に名前がついていたわけではないが)の絵を描き、各地の知識人や文人たちに紹介した。実際にその後から猊鼻渓を訪れる人が増え、いまに至るわけだから、インフルエンサーの役割を担っていたといってもいいだろう。もちろん蓑虫自身もここを気に入り、「これはすごい、かつて見た耶馬渓にも匹敵する」と、大いに感動し、猊巌とともに「東耶馬渓」というキャッチフレーズをつけた。猊鼻渓が現在でも東北の耶馬渓と呼ばれているのは、蓑虫の青春時代の旅が大きく影響している。

猊鼻渓だけではない、インフルエンサー蓑虫は各地の名勝を積極的に描き続け、それを世間に積極的に紹介し続けていた。当時の蓑虫を知る人の貴重な証言によると、蓑虫は話がおもしろく、またよく通るいい声をしていたということだ。なかなかのプレゼン力があった。

蓑虫は常に自分自身の感動を絵に描き続けていた。特に絵日記では日常の明るい面を描き続けてきた。そういう点でもキラキラとした投稿ばかりするインスタグラマーとなんら変わらない。旅先で出合った風光明媚や人物、驚きと喜び。お世話になった人にはその旅先の風景を掛け軸や屏風絵に落とし込んだ。

出展:『岩手を旅した絵師の足跡』(岩手県立博物館編)/原資料=長母寺所蔵
これも蓑虫らしさの詰まった絵日記。岩手の及川右七郎家で正月を迎えるときの話。大みそか、村人たちが集まり蓑虫に面会を求める。口々に蓑虫はほらばかり吹くとんでもない奴だ懲らしめてやる。とか、頼めば絵を描いてくれるようだとか。皆勝手だ。しかし最後には皆で蓑虫の諸国漫遊の話などを聞き大宴会となったということが書かれている。そして村人は帰り、蓑虫と主人の少ししんみりしたよい時間が訪れる

よいことばかりを描き続けてきたのにも理由がある。
少年期の家出のきっかけは、母親の病気や死だった蓑虫。その猛烈に攪拌され身体の中に走り回ったであろう若い衝動は、やがて澱となり心の奥底に沈殿していく。14歳からはじまった旅はもうすでに40年を超えた。その間に、岐阜県で職に任命されたり、青森では宮内庁の依頼を受け、岩手県で公園をつくり、各地の名勝の宣伝に尽力し、秋田で小さなだんらんを育んだりもした。地元の名士にも知り合いが多く、その身を落ち着ける機会は何度だってあっただろう。それでも旅を続けた。

蓑虫の生きた時代はいまと比べても、格段に生まれた場所や家柄に縛られていた時代。「軽やかにしがらみを振り払い自分らしく生きた」なんてただのきれい事で、その道程はそれ相当の艱難と辛苦の連続だっただろう。楽しい絵日記のその裏側には、描かなかったこと、描けなかった事柄が道化師の涙のようにへばり付いている。

思えば絵日記には家族のことは一度も描かれていない。しかし、蓑虫の菩提寺である名古屋の長母寺が所蔵する遺品の中には自身の母親と父親、父親の正妻の名前の記された簡素な位牌が残されている。家族のことを忘れたわけではなかった。ずっと一緒に旅をしていたのだ。

明治23年5月、蓑虫は東北から再度上京(一度目は3年前、神田孝平に会いに行く)する。東京の上野公園で行われる東京大博覧会(第三回内国勧業博覧会)見物のためだ。蓑虫の夢は博物館をつくること、国のそれとはどんなものか、どれ見てやろうという気持ちもあったかもしれない。前回の滞在同様、東京・神田に20日間滞在し、5月16日に大博覧会を見に行っている。

蓑虫55歳、老境に足を踏み入れながらもまだまだ好奇心と行動力は止まらない。次回は最後の東北の旅になる。

※1 揮毫料(何か描いたとして)としてだいたい50銭ほどで受けていたという。たとえば実際には、「屏風半双、外小襖、あわせて2円」、「掛物一枚、外九寸フスマ、合わせて50銭」とかなり良心的な金額だ。当時、実際に蓑虫が泊まった弘前のささき旅館の宿泊料が2食付きで38銭となっている。揮毫料を取らないことも多く、むしろ気に入らなければいくらお金を積まれても描かなかったという
※2 天井のない帽子。蓑虫は自作で天井のない筒のような帽子をよくかぶっていた。これは帽子ではないと言い張り、室内でもどんな貴人の前でも脱がなかったという

中国の詩人李白の五言絶句「白髪三千丈」が特に気に入っていて、わざわざこんな帽子をつくっていた蓑虫。自分自身の旅の長さや故郷を愁う気持ちでこんな格好をしていたのか、はたまたただのおどけか……。見えるは白神の山々だけど白髪山と表記。ちょっとうまい
能代市の長徳寺所蔵の掛け軸の6連作。テーマはどうやら露天商。瓢箪売り(右写真)、スイカ売り(中写真)、金魚すくいに陶磁器販売の露店等、身近な庶民の暮らしの中からのテーマを見つけ、それを掛け軸に仕上げている。とても楽しい連作

文=望月昭秀 写真=田附 勝
2020年1月号「いま世の中を元気にするのは、この男しかいない。」


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