TRADITION

【第4回】蓑虫山人の東北漫遊日記
「蓑虫、縄文にハマる」
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.7
【第4回】蓑虫山人の東北漫遊日記<br>「蓑虫、縄文にハマる」<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>
蓑虫山人から神田孝平の手に渡り、現在は関西大学博物館に収蔵されている土偶。蓑虫は繰り返しこの土偶の絵を描き続けていた。手の平でずっしりとつやがある

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第4回は、縄文好きの中では知らない人物ではないほど、縄文好きだった、蓑虫山人についてです。
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蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー

幕末から明治、家を背負った放浪の絵師

連載の第1回でも紹介した蓑虫得意の神代石器の右の土偶を描いた屏風の絵。ただこちらは青森浪岡の浪岡八幡宮に残されていたもの。隣の青森市中世の館に展示してある

明治11年。突然、蓑虫山人の名前が岩手県一関市水沢町の“町史”に登場する。水沢公園——現在でも都市公園として、桜の名所として市民に親しまれている場所だ。その公園、なんと造園したのは蓑虫山人というではないか。

水沢町史にはこう書かれている。少し芝居がかった大げさな文章だがここに一部原文を載せておこう。「明治10年伊勢神宮の御分霊の巡御せらるゝを機とし、戸長小岩昌、副戸長千葉美樹、公園解説を提唱し、議忽ち決す。偶々蓑虫仙人の水澤に覇寓するあり、託するに公園設計の事を以てす。(中略)仙人自ら畚鋤を手にし衆と共に労作し、荊棘を芟り荒蕪を拓き、珍花奇木を植栽して遂に一大公園を成せり。緑樹花草の布置、遠山近景の配合、寛に縣南唯一の公園たるを恥ぢず。」(中略は筆者による)

蓑虫41歳。20代の最後に大分県宇佐市を去ってから、水沢公園を設計するまでの30代の足取りはほとんどわかっていない。もちろん日本各地の風景を描いた絵が東北や岐阜などに残されていることを考えると、相変わらず放浪生活に身を置いていたのだろう。37歳のときに地元である岐阜県で当時の岐阜県令長の長谷部恕連から古器物取調係に任命されたという話も残っているが、結局は断ってしまったのか長くはやらなかったのか、そのあたりもよくわからない。

c桜の散りはじめの水沢公園。きれいに区画された庭は、日本庭園というより洋風な趣。公園は蓑虫が作庭した後にグラウンドがつくられたりと範囲を拡大している。いまは立て札にその名前が残されているだけだ

話を水沢公園に戻そう。パブリックなスペースでもある公園のデザインはさすがに得体の知れない人物がふらりとできるような仕事ではない。どんな経緯があったのか、そこにはしかるべき筋の推薦や何かしらの実績があったのだと想像できる。実際、岩手県周辺での絵日記には各地の名士や文人たちと交わった様子が描かれ、この時点で蓑虫はただの放浪者を超えた存在だったことは間違いはない。

水沢市の公園管理局と公園の隣の駒形神社に当時のことをたずねてみる。が、例のごとくほとんど何もわからない。以前水沢市では蓑虫山人の展示を開催していて、そのときには駒形神社所蔵の蓑虫作の掛け軸が何本か展示されたというが、いまは倉庫の中で行方知らずという。

公園の設計は特殊な例としても、造園もまた蓑虫の得意としたもののひとつだ。蓑虫は行く先々で大小さまざまな庭をつくっている。しかし、それ以上に東北での蓑虫の漫遊は取り上げたいことが多い。少し先を急ごう、この雑誌の誌面は限られている。

ここでひとつだけ補足しておく。公園をつくったからといって、地元の名士と交わったからといっても、安心してほしい。期待は裏切らない。蓑虫は蓑虫だ。むしろ蓑虫山人の変人スタイルはここ東北で確立する。

さて、なにはともあれ、あらためて、蓑虫山人の東北漫遊のはじまりである。

回遊する蓑虫山人

青森で蓑虫の残した絵は絵日記を含めかなり多く、今回の取材でもすべてを見ることはかなわなかった。右の三枚は絵日記から、上の絵は明治15年に現れた彗星( グレートセプテンバーコメット)を眺めながら青森の蟹田で野宿している絵だ。なんだかうらやましい。左は深浦町円覚寺に残されていた表装された絵、構図がかっこいい。 この杉の木の絵には伝説がある。──嵐の夜、難破しかかった船がこの杉から放たれた光によって港に導かれたという。円覚寺の竜灯杉という名がつけられている

蓑虫山人の東北漫遊は二度の上京を区切りとして大きく3回に分けることができる。今回はその第1回目、明治11年から20年までの話だ。

岩手で水沢公園をつくった後、その年中に蓑虫は一気に青森の下北半島まで北上する。そこからの足取りは明治12年は津軽、13年深浦、14年、15年からは中泊、弘前と、明治20年までの10年間をほぼ青森で過ごすことになる。

青森ではお世話になった人の数に比例してたくさんの絵を描いている。九州を回っていた20代の頃よりも格段に筆さばきに迷いがない。構図にも工夫が見られ、線の省略もうまい。いまでもその絵がいくつも残っているということは、贈られた相手がその絵を大いに楽しみ、大切にとっておいたということにほかならないだろう。

当時の青森に辺境のイメージを抱くのは正解であって正解ではない。当然日本の中心部から離れているわけだから当時の人々の暮らしの様相は中央からは大きな後れがあった。しかし、進歩的な一面もあった。弘前にはという私立学校が建てられ、明治6年の時点でアメリカ人の英学教師が就任している。当時の東北を旅した大英帝国の女性旅行家のイザベラ・バードは著書『日本奥地紀行』の中で、東奥義塾をその先進的な取り組みからあえて「カレッジ」と評していたほどだ。

「天の岩笛の音を聞て」現在この石笛は深浦町円覚寺にある。住職に実際に吹いてもらいこの絵の蓑虫と同じように僕らも驚いた。楽しい取材だった。ほら貝を吹くようなコツがいるということだ。僕らも試しに吹いてみたがまるで音が出なかった

また弘前と同じように蓑虫が長くを過ごした深浦、鯵ヶ沢は北前船という大阪から北海道までを行き来する船の航路となっていて、京でのはやりや文化はほとんどタイムラグなく港に伝わっていた。当時の文化人もこの地に逗留し、港の賑わいは相当のものだったようだ。そもそも蓑虫、仙人と自称はしてはいるけれど、人を避け山にこもり仙術を磨いていたわけではない。人や文化や珍しいものが大好きなただのサブカルポップ野郎。当然のようにそれらをキャッチするアンテナは高い。

出会いも多かった。各地の名士や文人たちとはもちろん、自身の興味のままに地元の人々と積極的に交流していった。そして何より、ここ青森では蓑虫にとって自身の転機となるふたつの出会いがあった。

蓑虫、土偶に出合う

左)土偶の中で一番有名な亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶。国の重要文化財。農作業中に発見されたとの説もあるが発掘の経緯はよくわかっていない。(東京国立博物館)右)佐藤蔀(しとみ)の遮光器土偶のスケッチの絵は蓑虫とは違いかなり正確。佐藤が描いた理由は発掘のトラブルで蓑虫自身のスケッチはかなわなかったのではないかと想像する。 次ページ本文中の蓑虫の東京人類学会誌の報告の最後の「図は後便に託し」が、この佐藤のスケッチのことではないだろうか。この図以外で蓑虫からはそれらしき土偶の図は送られていない(弘前大学蔵)

ひとつ目の出会いは人ではない。「神代石」(縄文時代の石器、併せて土器や土偶)だ。蓑虫がはじめて「神代石」と出合うのは明治11年、下北半島佐井村の八幡宮の石器からだ。それを皮切りに蓑虫は積極的に「神代石」を訪ね歩く。

青森県には県内の「神代石」の、その所有者が記された『陸奥全国神代石并古陶之図』という巻物状の蓑虫のスケッチが残されている。明治15〜16年頃に描かれたこのスケッチの中には蓑虫所蔵となっているもの(冒頭の写真の土偶など)もいくつかあり、蓑虫自身も数年のうちに一端のコレクターとなっていたようだ。さらに縄文熱は高まり、いままでに見てきたそれらをモチーフにして「神代石」の屏風を判明しているものだけで実に6組も描き上げている(この連載の1回目参照)。

ふたつ目の出会いも「神代石」とつながっている。政府の高官であり洋学者の神田との出会いだ。明治19年9月、すでに交流のあった地元の文人である佐藤、広沢を通じて紹介される。当時神田は東京人類学会という日本におけるはじめての考古学を研究する団体の立ち上げにかかわり、またその調査のために東北に訪れていた。

弘前に蓑虫という考古好きの変人がいるといううわさが当時どのくらい広まっていたのかわからないが、神田は蓑虫に興味をもつ。政府の高官と一介の旅絵師にして変人という立場の大きな違いを越え、二人は意気投合する。出身が同じ美濃で同じ考古趣味、話が合ったのだろう。

神田が東京人類学会誌に蓑虫を紹介した文がある。「浪岡と申す所にて蓑虫と号する奇人に逢ひましたが、此人至て古物ずきにて所蔵沢山あるよしなれど、皆弘前に預け置きたれば手元にあるは是斗なりとて、瓶ヶ岡掘出しの壺を以って造りたる烟草入れに同種の土偶の首を根付にしたる者、一寸五分斗もある翡翠質の大緒〆、ならびに蕨手の鉄刀などを見せられました。別人の話に此老人、茶道具一式を瓶ヶ岡土器にて取揃えて愛玩して居ると申す事を承りました」

神田との出会いを機に蓑虫の考古趣味はさらに加速する。自分の好きでやっていることで、社会とのつながりやその意義にお墨付きのようなものをいただいた気になったかもしれない。青森という中央からも故郷からも遠く離れた地での出会いもすべて、自身の抱く「六十六庵」の夢にするような、大げさでもなんでもなく、蓑虫は「運命」を感じた。

蓑虫山人と亀ヶ岡遺跡

亀ヶ岡遺跡を発掘するの図。ゆうゆうと人夫たちを眺めているともいえるが手には鍬(くわ)。右上に書かれた文章は山根の舎主、垢人という、人物の賛、蓑虫に「古への人の姿をいまここに穿り得て見るや国のことふり」という歌と発掘によって出土した人形(土偶)と杯を見せられたと記してある。明治17年11月 蓑虫最初の亀ヶ岡の発掘の様子

この話をしよう。
青森県つがる市にある遺跡、亀ヶ岡遺跡。縄文晩期の北東北を中心とした文化は亀ヶ岡文化とも称され、この遺跡はその名の通りこの時代を代表する遺跡だ。「土偶」といえば縄文ファンじゃなくても思い浮かべる土偶(上参照)や、現代人の目から見ても工芸品として優れたものが多い式の土器も亀ヶ岡文化のものだ。

明治17年11月と20年4月上旬、「神代石」に夢中の蓑虫はこの地を訪れ発掘している。モース博士の大森貝塚の発掘が明治10年と、日本の考古学はいまだ黎明期、当時の発掘はいまの学術的な発掘とは違い、一部の先進的な研究者を除き多分に宝探し的な意味合いが強かった。もちろん蓑虫のそれも例に漏れず、ずいぶん雑に掘り進めていたんだろうと思う。

明治20年の二度目の発掘はもちろん神田との出会いが大きく影響している。その証拠に、発掘の様子を蓑虫は神田に手紙で送り、それが明治20年6月に発行された東京人類学会誌第2巻16号に掲載されている。この寄稿は日本の考古学の中でも実はものすごく重要な文なので、ここで原文を(少し読みやすくして)紹介しておく。
「陸奥瓶岡(亀ヶ岡)ニテ未曾有ノ発見——四月上旬、西津軽郡瓶岡において古今無双の珍物を発見いたし申候。当日迂生自身(自分のこと)鍬をとり土人(原文ママ)とともに労力をかけ、土中一尺ばかりを掘り出したところ忽然と瓶十個、石剣五本、曲玉四個、人形一対、玉質磐石(磐石の意味不明、翡翠の大珠のことか)及び菅玉無数を封したる壺一個を発見せり(中略)、人形は男女二人を模したる者にして、一個は乳を具し胸に角玉様のものを飾り頭後に結髪せり、一個は冠を被り左右の腕に大礼服に似たる模様を彫り、想うに古代首長を模擬したる者か、兎に角無類に御座候。
古物発見に付き三日間を費やし土人の騒動一方ならず、迂生は種々説法を聴かし曲玉四顆、磐石一、石剣若干を手に入れたり但し人形は毀損したる分を購ひ申候。この珍物を毀損せしは掘得たる際土人等所有権を争ひ一場の争闘を起し罵声の声と共に数個に砕け申候。此人形一対考古学者にとりて無上の佳品と存じ候。瓶及人形(完全なる者)は非常の高値にて迂生等の及ぶ所にあらず(中略)図は後便に託し差上申す可く候」(中略・一部( )書きは筆者による)

数個に砕け申候——最後のくだりは「おいっ」と突っ込みたくなるほど雑なオチがついていて、いかにも蓑虫らしい話ではある。そもそも亀ヶ岡遺跡は掘ると瀬戸物が出ることから、瓶ヶ岡、などと呼ばれ、戦国時代から地元では有名な場所であったのだが、この蓑虫の寄稿が亀ヶ岡遺跡を中央に紹介したはじめての文となる。この寄稿から2年後には初の学術調査、さらに明治28年と29年にはもっと大規模な調査が行われたことを考えれば、この遺跡が縄文晩期を代表する文化の名前になるほど有名になったのは、蓑虫山人の功績といってもいいだろう。

さらに調べる。弘前大学の考古学研究室で当時の資料をいくつか見せてもらう。ここには遮光器土偶の中でも最も有名な片足の遮光器土偶(右ページ、東京国立博物館、この土偶も亀ヶ岡遺跡出土)の佐藤蔀によるスケッチが残されている。そのスケッチにはこう書かれている。「大ノ人形図、西津軽郡舘岡村加藤氏ノ蔵、堀得タル時ハ明治二十年四月ナリト云」。そう、蓑虫の発掘した時期とこの土偶の発掘された時期はほとんど一致している。東京人類学会誌第2巻16号をもう一度読み返す。まさか蓑虫が人類学会誌に投稿した2体の土偶のうちのひとつがこの遮光器土偶なのか。

蓑虫山人の研究をしている青森県立郷土館の太田原慶子さんはこう言う。「そのまさかの可能性はあると思っています。実はかねてから一部ではそうささやかれていたことではあるのですが……、ただこれ以上のことはわかっていないのです」

当時の亀ヶ岡の様子がどんなものだったのかははっきりとはわからない。しかし、ひと月に何度も発掘されたりするような賑わいがあったとはとても思えない。可能性のひとつであっても、有力なひとつに違いない。

もしあの土偶を蓑虫が掘ったのであればこれは驚くような発見だ。片足の遮光器土偶はあれだけの優品かつ縄文時代全体の象徴的な存在であるのにいまだに国宝ではない。そういう点では現在国宝に指定されている5体の土偶の後塵を拝していることになる。その理由として発掘時の状況がよくわかっていないということがこの土偶には挙げられているのだが……。もしこのどうしようもない顛末がこの土偶のストーリーに付け加えられ、さらに当時の研究が進んだとしたら……。蓑虫のいかんともし難い胡散臭さが邪魔をしている可能性もあるのだが。

この年の8月12日、蓑虫は東京に上京する。神田淡路町の駿河屋旅館に泊まっていたことが記録に残っている。同じ町内に神田孝平の住居があり、この上京の目的は神田との考古談義、依頼されていた古器物の受け渡しだったのだろう。そのとき神田に蓑虫からいくつかの考古遺物と亀ヶ岡で砕けた土偶の残欠が譲られている。その様子は明治20年12月の東京人類学会誌に詳しい。その前号には前出の佐藤蔀の遮光器土偶のスケッチも掲載されていたようだ(蓑虫いわく「図は後便に託し」とはこのことか?)。

神田に会った以外の東京滞在中の蓑虫の行動はわかってはいない。滞在は20日間、9月2日には宿を出て、再度東北へ向かう。

視界ははっきりと見えている。蓑虫は感じていただろう。その一歩、その歩幅の分だけ六十六庵の夢に近づいていることを。

 

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文=望月昭秀 写真=田附 勝
2019年11月号「すごいぜ!発酵」

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