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北海道《ウポポイ/民族共生象徴空間》
アイヌ民族の世界を学ぶ。

2|多様性

2022.8.15 PR
<small>北海道《ウポポイ/民族共生象徴空間》<br>アイヌ民族の世界を学ぶ。</small><br>2|多様性

北海道白老町(しらおいちょう)にある「ウポポイ(民族共生象徴空間)」。博物館エリアには、基本展示室、特別展示室、シアタープログラムがあり、「多様性」をキーワードとした基本展示室の空間構成と6つの展示から、アイヌ民族の基礎知識が学べる。

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アイヌ民族の多様性を「プラザ方式」の展示で表現

「ひと言で“アイヌ民族”といっても、北海道、樺太・千島・東北地方などの地域によって言葉や文化、道具の素材、儀礼の方法など非常に多様性に富んでいます。その違いは、本州でたとえると青森県から広島県くらいの地域差があります」と説明してくれたのは、学芸主査の八幡巴絵さん。

そんなアイヌ民族の多様性を展示でも示そうと、国立アイヌ民族博物館の基本展示室は「プラザ方式」という手法が採られている。展示室の中央に円形に配置された14台の立体ケースには、6つのテーマ「ことば」、「世界」、「くらし」、「歴史」、「しごと」、「交流」の代表的な資料を展示。来館者はまずここでアイヌ文化の概略と優れた芸術性をダイジェストで知ることができる。もっと知りたいと思ったケースから放射状に展示室の奥に進むと、テーマごとにより深く紹介する展示物があるという構成だ。

すべての展示物をしっかりと見学すると、3時間はかかるという膨大で貴重な資料ばかり。八幡さんは「時間のない方は、まず14台のケースの見学がおすすめです。多くの美術館、博物館と違って見学順路がありませんので、興味の赴くままにめぐってください。その多様性こそが、アイヌ民族の視点なのです」と笑顔で話す。

森羅万象に宿る魂への、感謝と敬意
【世界/イノミ】

上から『衣服(木綿)※復元』(原資料所蔵=北海道博物館)作=山崎シマ子(2013年)、『サパンペ/パウンペ/イナウル(儀礼用冠)』、『エムシ(儀礼刀)』、『エムシアツ(刀掛帯)』作=村木ハツヨ(1992年、北海道白老町)
『イクパスイ/イクニシ(酒を捧げる祭具)』

アイヌ民族は、自分たちが暮らす世界(アイヌモシリ)の動植物、道具類、津波や地震、はやり病などは「ラマッ」と呼ばれる霊魂をもち、ラマッが住む世界からそれぞれの役割をもってアイヌモシリにやってきていると考えている。また、ラマッはその役割を終えると再び元の世界に戻っていくため、その霊魂を送り帰すために丁重な儀礼を行う。儀礼は盛大な饗宴とお土産を伴うもので、アイヌ民族の暮らしに密接であればあるほど、盛大かつ厳粛に行われる。また、アイヌ民族にとってのカムイ(神)は、その暮らしに欠くことができないもの、人の力が及ばないものである。このため、あらゆるカムイに感謝の心をもち、敬いながら、事あるたびに神への祈りを捧げる。

大自然との持続的な関係性
【くらし/ウレパ】

アイヌ民族のチセ(家屋)は日常生活を営む場所。正面にカムイの出入り口となる神窓を設置し、女性が編んだ花ござを壁に張りめぐらせたり敷物として使った

アイヌ民族は食べ物や飲み水が得やすく、災害に遭わないような川や海沿いの場所を選んで家を建てて村をつくった。この村をコタンと呼び、人々は村長を中心にコタンの周りの山や川、海の決まった場所で狩りや漁、植物採集をしながら生活をした。「自然」の中に食料を求めていたため、多くの時間を食料採取に費やしたが、野生植物は必ず根を残し次の年の分を確保。また冬が近づくと肉や魚を干して燻製にし、保存食をつくった。

“暮らし”に密接だった“仕事”
【しごと/ネキ】

秋から春にかけて主に女性や子どもが山野で植物を採集し、網袋に入れて持ち帰った。冬に食べるための保存食や薬としても利用し、毒の見分け方や調理方法などは親から子へ伝えられた。『サラニプ(編袋)』

北の厳しい自然の中で暮らすアイヌ民族の生活は、四季を通し狩猟や漁撈、植物採取などの労働によって営まれた。労働は、食料を得るためや身の回りの生活用具をつくるために行われ、狩猟や漁撈などは男性の仕事、山菜採りや機織りなどは女性や子どもの仕事とされていた。19世紀からはじまる日本の同化政策によって住む場所や仕事が奪われる激動の時を経て、現代は国内外で時代に合わせたさまざまな仕事を行っている。

北海道の地名に残るアイヌ語
【ことば/イタ

アイヌ語は明治以降、日本の同化政策で生活の中から失われていった。この結果、2009年に国連のユネスコにより「消滅の危機にある言語」と位置づけられた。『アイヌ語で書かれた一代記』著=砂沢クラ(1983年/『私の一代の思い出—クスクツプオルシベ—』)

アイヌ語は北海道、樺太、千島列島などに住んできたアイヌ民族が用いる独自の言葉で、日本語とは別の言語だ。かつては口頭のみで使われてきたが、現在は従来のカタカナにはない文字なども使いながら工夫して表記している。アイヌ語に触れる身近なものとして地名があり、北海道の地名の大部分は、アイヌ語の音や意味に漢字やカタカナを当てはめて名づけられている。このような地名は樺太や千島列島、東北地方にも見られる。

多様な民族との外交によって発展
【交流/ウコア

樺太の中北部からアムール川の中下流域にかけて居住するツングース系諸民族の先住民族の衣服には、アイヌ民族と異なり東アジアで広く見られる形状のものがある。『ウイルタの衣服(木綿)』

アイヌ民族の周囲には、南に和人、北にウイルタやニヴフ、ウリチ、そして東にイテリメン、アレウトなどの諸民族が暮らし、アイヌ民族と活発に交流をしていた。クロテンやラッコの毛皮などを重要な交易品として、日本や中国、ロシアに船で運んだ。また、18世紀以降、日本では幕府の役人などがアイヌ文化を記録し、アイヌ民族の衣服や工芸品は、和人の間でも広く珍重されていた。20世紀初頭、北海道が観光地化するとアイヌ文化の紹介を仕事にする人も出現し、さらなる交流を深めた。

未来を描くために知るべき史実
【歴史/ウパクマ】

アイヌ民族にとってサケ・マス類は重要な食料だったが、明治期に開拓使が川でのサケ漁を禁止。食料資源をとることができなくなった。上から『キテ(銛/もり)』、『マレク(突鉤/つきかぎ)』、『アプ/カンキ(引鉤/ひきかぎ)』

人類が住んだ約3万年前から年表はスタートする。漁撈、狩猟、採集を主な生業とし、他地域の人たちと交易を行っていた。しかし、1604年に松前藩が蝦夷地の交易権を独占し、さらに19世紀後半にはアイヌ民族の暮らす地域に日本とロシアの国境ができたことで、樺太や千島ではアイヌ民族が北海道に強制移住させられた。戦後、北海道や本州で暮らすアイヌ民族は差別に抗議し、貧しい暮らしをよくするために活動してきた。

 


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text: tomoko Honma photo: Hiroyuki Kudoh
2022年9月号「ワクワクさせるミュージアム!」

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