伝説が息づく「ならまち」を再発見
はじまりの奈良
初代神武天皇が宮を造られ、日本建国の地とされている奈良県。連載《はじまりの奈良》では、日本のはじまりとも言える奈良にゆかりのものや日本文化について、その専門家に話を聞いていきます。今回はならまちの歴史や伝説について、奈良の魅力を伝えるスペシャリスト・友松洋之子さんに話を伺いました。
奈良観光でひとつの楽しみといえば、ならまちのそぞろ歩きだろうか。古い町並みを眺めながら、おしゃれなカフェや雑貨店を訪れる。最近では、かき氷の聖地ともいわれ、美味を求めて生じる行列も珍しい光景ではなくなった。
ならまち。漢字で書く奈良町もあるが、こちらは江戸時代から存在する、かつての奈良町を指すもので、現在の「きたまち」、「ならまち」、「京終」までを含む広いエリア。一方、平仮名のならまちは、元興寺の旧境内を中心にした地区のことを指す。
世界遺産にもなっている元興寺は、日本ではじめて創建された本格寺院である法興寺が、平城京遷都の際に、別院として建てた寺院である。伽藍地は、南北四町、東西二町に及ぶ巨大なものだったが、他の寺院と同様に衰退していく。そして、室町時代に起こった宝徳の土一揆(1451年)により、元興寺は主要伽藍のほとんどを焼失してしまう。その後、荒れた寺地に町家が進出。こうして、「社寺の町」から「商人の町」へと変わり、ならまちが成り立っていったのである。
実際に、ならまちを散策していると、細い路地に出合う。この細い道を「辻子」という。菱屋辻子、南側辻子、聖之辻子などの名前がついており、これらは宝徳の土一揆で焼け跡となった場所につくられた細い道の名残である。
歴史深い町並みには、多くの不思議・伝説が残っている。
有名なところでは、猿沢池の采女伝説。天皇に寵愛された美しい采女が、やがて寵が失われたことを嘆き、猿沢池に身を投げた。このとき、身を投げる前に衣を掛けた木が、池の南東にある衣掛柳だ。その後、采女を哀れんだ町の人々が「采女神社」を建てたが、自分が身を投げた池を見て過ごすのが嫌といって、社殿がひと晩で後ろを向いたといわれる。確かに、社殿の正面が池の反対側を向いている姿を、見ることができる。
ならまちの中心であった元興寺には、がごぜ伝説がある。がごぜとは、西日本では、鬼を指すことが多い。仏教の説話集である『日本霊異記』によると、寺の鐘楼に出る鬼を、怪力の童子が退治をした。鬼は髪の毛を引き剥がされながら、必死で逃げ去ったという。元興寺では、この童子が鬼を退治したときの形相を「元興神」などという。
元興寺境内には、鬼の石像が所々に隠れており、雷さんの石像もある。これらを探してみるのも楽しいだろう。ちなみに、鬼が逃げ去った道は、不審ヶ辻子は、と呼ばれている。
また、輪廻転生では、生まれ変わる世界が6つあり、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道という。猿沢池脇の六差路「六道の辻」は、それぞれの世界に通じる道だといわれている。
こうした伝説は、枚挙にいとまがない。博打の神さまとして親しまれる道祖神社の巨石、鎮宅霊符神社の笑う狛犬、不動明王と毘沙門天を従えて甲冑で身を固めた騎馬姿の地蔵尊などなど。そして、これらは、かたちとして残っており、実際に見ることができる。
こうしたことを深く知ってから訪れてみれば、知っているはずの場所でさえ、見えるもの、感じるものが変わってくるはず。あるいは、見えないものが、見える不思議に出合えるかもしれない。実際、元林院町界隈には、夜道、誰もいないはずの背後から、声が聞こえるという言い伝えもある。
cooperation : Masayuki Miura text : Tatsuya Ogake photo : Yuta Togo
2019年10月号 特集「京都 令和の古都を上ル下ル」