温かいパンはささやかでも確かな幸せ
本誌でもおなじみの各業界で活躍する著名人に、おうち時間の過ごし方やアイデアを聞く《DJ的・おうち時間の充実計画》。今回はブレッドジャーナリストの清水美穂子さんが、温かいパンが与えてくれる、ささやかだけれど確かな幸せについて教えてくれました。
清水美穂子(しみず・みほこ)
東京生まれ。ブレッドジャーナリスト。職人仕事に興味がある。着物と本好き。著書に『月の本棚』(書肆梓)、『BAKERS おいしいパンの向こう側』(実業之日本社)、『日々のパン手帖パンを愉しむsomething good』(メディアファクトリー)ほか。
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ささやかだけれど、役に立つこと
朝起きると、COVID-19感染者数が昨日より増えている、という非常事態が日常になってしまった。人との接触を避け、家にこもらなければならないなど、前代未聞の春だ。食欲もないけれど、自分がこんなとき、ささやかながら役に立てるとしたらそれは、家族のために食事をつくることではないかと考える。
心を込めてつくられる温かな食べもののもつ力を、子どものときに五感で覚えた。たとえば、母が焼いたロールパン。ボウルで膨らんでいく生地の発酵の香り、オーヴンから漂う焼成の香りも、当時の私の日々を明るくした。「ちゃんと食べている?」母はいつもそう言った。「食べないと動けないからね」。動くというのは働くということで、働くというのは生きるということだった。
世界が打ちひしがれているいま、ふと思い出したパンのありようは、レイモンド・カーヴァーの短編小説に出てくるロールパンのそれなのだった。『ささやかだけれど、役に立つこと』(A small, good thing)は、突然の交通事故で子どもを亡くした両親と、その子どものために予約されていたバースデーケーキを、取りに来てもらえなかったベーカーの物語だ。不安と絶望、破綻、誤解と諍い、そして和解。失われたものは永遠に失われたままだが、そこに出てくるパンの存在感は大きい。
「何か召し上がらなくちゃいけませんよ」とパン屋は言った。「よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べて下さい。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならんのだから。こんなときには、物を食べることです。それはささやかなことですが、助けになります」と彼は言った。
彼はオーヴンから出したばかりの、まだ砂糖が固まっていない温かいシナモン・ロールを出した。彼はバターとバター・ナイフをテーブルの上に置いた。
『ささやかだけれど、役にたつこと』(レイモンド・カーヴァー著 村上春樹訳・『レイモンド・カーヴァー全集3』中央公論新社)より
差し出される温かなパンのすごさを思う。空腹も忘れるような絶望の底にあって、夜更けにシナモン・ロールを食べ、糖蜜と粗挽き麦の黒パンを食べ、朝まで静かに語り明かす人々の心と身体を満たした、ささやかだけれど、確かなもの。私たちもちゃんと食べ、生きていかなくてはならない。
とるにたりないもの
ささやかなもの。とるにたらないこと。不要不急の用事。私たちの生活は意外とそうしたものごとでできている。そして、失いかけたときにはじめて、実はそれらが、かけがえのないものであったことに気がつく。いまは世界中の誰もが、実感していることだろう。
『とるにたらないものもの』は、作家、江國香織の洒脱なエッセイ集で、なるほど彼女の美しい小説世界は、こうしたものごとが地盤としてあるのだと納得する。なかでも私は、フレンチトーストの話が好きだ。レイモンド・カーヴァーのパンが、暗くて悲しい真夜中にあったのとは対照的に、こちらは天にも昇るような幸せの朝だ。フレンチトーストを食べると思い出す「それはそれは羽目を外した」恋の話だから。
ただでさえ甘いフレンチトーストを、その男は小さく切って、新たにすこしバターをのせ、蜜でびしょびしょにしてフォークでさして、差しだすのだった。幸福で殴り倒すような振舞い。私はそれを、そう呼んだ。(中略)
フレンチトーストが幸福なのは、それが朝食のための食べ物であり、朝食を共にするほど親しい、大切な人としか食べないものだから、なのだろう。
『とるにたらないものもの』(江國香織著・集英社)より
これを読んだら、フレンチトーストをつくらずにはいられなくなる。「バターをのせ」という表現に注目したい。江國さんは別の本で、バターは塗るのではなく「つける」、あるいは「のせる」ものだと言っている。その通り、バターの美味しさは体温で溶ける、官能的と言ってもいいような瞬間にある。
フレンチトーストは、どこか非日常の空気をまとっている。パンをナイフとフォークで食べるという行為が、ちょっとかしこまった、よそゆきの感じを醸すのだ。休日だというのにどこへも出掛けられない朝、それは家にいながらにして旅のような、いい意味での非日常を食卓にもたらすのではないか。
ナイフとフォークで食べるのは、フレンチトーストに限らない。オープンサンドでもいいと思う。パンには好きなものをのせるという選択肢がある。中世の昔にパンは、お皿の代わりをも務めていたのだ。
温かいパンのある食卓は、ささやかだけれど、確かな幸せ。それは大きな試練を乗り越えようとしている私たちの朝を明るくし、勇気づけてくれるはずだ。
清水美穂子さんがおすすめ「フレンチトーストと季節のオープンサンド」レシピ
フレンチトースト
2人分で厚切り食パンを2枚使うとして、卵2個、牛乳180㏄を溶き混ぜたところへパンを浸す。できれば中までよくしみるように一晩浸しておく。
フライパンに多めのバターを落として焼き、皿に盛り、バターとメープルシロップを添える。
私はここに、イチゴやバナナのスライスをどっさりのせるのが好きだ。
▼バターもつくってしまおう
乳脂肪分の高い生クリームがあれば、ボウルで泡立て続けるだけで、バターになる。
ホイップクリームの状態になってもさらに泡立て続け、分離してくる水分を別の容器に移しながら、最終的にはゴムベラですり混ぜる。すると、ミルキーな味わいの無塩バターが出来上がる。
▼カロリーオーバーが気になるなら…
水切りヨーグルトを添えるのもいい。
キッチンペーパーを敷いたざるにヨーグルトを入れてラップをし、冷蔵庫で数時間、水切りする。
味わいは爽やかながら濃厚なクリームの食感になる。これはフルーツにもとてもよく合う。
季節のオープンサンド
新緑の時季には、緑のものをたくさん、パンにのせてみるのはどうだろう。
ベースにフワフワに焼いたオムレツかスクランブルエッグを敷いて、その上にありったけの緑を。柔らかなスプラウトやベビーリーフ、ハーブの類、塩ゆでしたアスパラガス、そら豆、スナップエンドウなどを盛る。
味つけは塩だけでも、細く絞り出したマヨネーズでも。それをナイフとフォークで食べる。それだけで、いつもとちょっと違う食事になる。
執筆=4月9日
text=Mihoko Shimizu illustration=Miho Nakamura
2020年6月号 特集「おうち時間。」