縄文時代から暮らしを支えてきた
米と日本人の歴史【後編】
日本人にとって欠かせない「米」。約3000年前から日本でも食べられ、やがて育てられるようになった米は、いかにして私たちとかかわってきたのか?農学博士・佐藤洋一郎さんの監修のもと、「米と日本人」の歴史を縄文時代から現在までひも解いていく。今回は、平安時代から現在までのお米と私たちの関係性をご紹介。
《平安時代~室町時代》
米は戦の結果を左右した!?
中世の後半は国中が戦乱に巻き込まれた時代であった。大名たちは領地の拡大に血眼になりそのための戦が繰り広げられる。戦を支えたのは、武器弾薬とともに兵士の食糧たる米であった。いかに多くの米をつくり、戦に備えて備蓄できるかが、戦の勝敗を決したといっても過言ではない。領地運営の良否は稲作環境の整備にかかっていた。
兵士の多くが農民であったことから、この時代の戦は農閑期に行われた。戦に勝つには、いかに早く農民たちを動員できるかが鍵を握った。早くに敵地を攻める事ができれば有利に事が進む。反対に戦の準備が遅れれば、収穫直後の米を奪う、田に火を放つなどの刈田狼藉を受けやすくなる。早生品種が注目を集めたが、そのひとつが大唐米であった。大唐米はインディカに属する品種のグループで、早生で乾燥に強い品種で米は粘りに乏しい。特に西日本の、低所得の農家に受け入れられ、全生産量の3割が大唐米になった地域も現れた。大唐米は後の時代には酒用の米としても使われていたようだ。
戦国時代の後半には職業軍人が現れ、1年を通して戦争が行われるようになった。万単位の兵士が長期にわたって遠征する戦争が起こり、米の調達「兵站」が重要さを増していった。領主ばかりか村でも米を備蓄し、それを投機的に運用する動きも広まってゆく。米は軍事物資という役割を与えられたのだ。
中世は商業が発達した時代でもあり、それとともに人が動く「旅」も活発になった。しかし近世に街道や宿場が整備されるまで、旅人は自分で食料を用意しなければならなかった。そのため、餅やかき餅、糒など長期保存できる食品が普及した。
《江戸時代》
米は貨幣としても活躍した!?
戦国時代の終わり頃から、検地による土地の生産力の評価や度量衡の統一が進んだ。徳川政権による幕藩体制下で、大名や有力な社寺の経済力は石高で評価されるようになった。そして米は年貢、つまり税としても使われるようになった。1石は約150㎏で、成年男子1年間の米の消費量に相当する。石高はその藩が支えることのできる人口規模を意味した。つまり米が経済の中心に座ったのだ。
藩は領内で採れた米を大坂や江戸屋敷に送り、米市場で売って現金を得た。領地が固定され、各藩とも米の生産を増やす経済対策に力を注いだ。藩が主導してさまざまな研究が進められ、農書が出版され、稲作技術や品種が普及し、新田開発にも力が注がれた。
一方、米への過度の集中は、時には飢饉をもたらし社会を崩壊させた。江戸の三大飢饉と呼ばれる飢饉の際には、人口の数パーセントが亡くなった藩もあり、村の暮らしは悲惨を極めた。飢饉の発端は多様で、東・北日本では冷害が、西日本では干害が多かった。
集荷された米のよい部分を市場に出したので、領地には品質の悪い米が残った。江戸や京、大坂など大都市の裕福な市民は白い米を享受できたが、地方の人々、特に農村の人々は低質な米にイモ、雑穀などを混ぜた「糧飯」を食べていた。都市と農村の格差は、こうして決定的なものになった。
米が集中した都市部ではさまざまな米食文化が花開いた。江戸市民は、江戸時代の初期には1人1日5合(750g)もの米を食べていたといわれる。それはやがて、麹という発酵文化を生み育て、酒、白味噌などの食品を生み、もち米は米粉にされるなどして和菓子にされ、茶事の場で重宝されて甘味の文化を育てた。さらに、江戸の町人文化と融合して、丼、江戸前の寿司などの新たなメニューを登場させた。
《明治時代~戦前》
明治政府の「富国政策」と米のつながり
明治維新は近代国家を生み出した。米の生産も藩単位から国策となった。この時代に米は、軍事物資として再認識され、国を挙げた増産体制が採られることになった。秋田の八郎潟などの干拓、愛知用水など大規模な灌漑施設の建造、信濃川など大河川の治水などの事業が、かつての藩の範囲をまたぐ国家事業として進められた。農業技術の向上や新しい品種育成のために政府による研究機関が開設された。これら一連の作業が「富国」だった。このときに登場した品種が、コシヒカリなどその後の日本を代表する品種の基になった。
富国の政策によっても米はまだ足りなかった。1918年には米不足に乗じて一部の商人が米を買い占め米価が急騰。富山県を発端に全国各地で市民が立ち上がり、米価引き下げや買い占められた米の放出を要求した。抗議活動参加者の一部が暴徒化して打ち壊しなどに出て軍隊が出動する騒ぎにもなった。これが「米騒動」である。
《戦後》
誰しもが白米を食べる時代へ
明治政府の政策がようやく実りはじめたのは、太平洋戦争後の1960年代のことである。水田の面積も、単位面積あたりの生産も増えた。多くの国民が、望みさえすれば白い米を腹いっぱい食える時代がやってきたのだ。しかし、よきこの時代は一瞬にして終わってしまった。’70年代に入ると、米の消費量が減りはじめ生産が過剰になってしまったのである。国が採った政策は、米づくりをやめた農家に補助金を出すという、前代未聞の政策だった。いわゆる「減反政策」である。
米余りという事態に流通も動いた。これまで国が一元的に管理してきた米の流通に民間や県が加わり、米の自由販売がはじまった。新潟県は、同県産のコシヒカリの価格を上げて販売する戦略を立てた。一般消費者が「コシヒカリ」という品種の名前に馴染むようになったのは、このとき以来のことである。コシヒカリの良食味は次第に社会に知られるようになり、一時は全国の作付面積の3分の1強をコシヒカリが占めるようになった。
20世紀の末頃から、いくつもの自治体で新たな品種が育成されるようになった。ただし育成された品種のほとんどはコシヒカリの血を引いており、食味や品質の画一化が進んだともいえる。また、学校給食に米飯が導入されるようになり、子どもたちも米に馴染む機会が増えた。
そして《現在》...
米不足は続く!? 令和の米問題
2024年初秋、日本社会は「令和の米騒動」に見舞われた。米余りだとずっと思っていた日本社会はこの事態に大いに混乱した。マスメディアなどではその原因についてあれこれ論評されたが、前兆は数年前からあった。外食産業など大量の米を買いつける事業者たちの間では米不足がささやかれていたのだ。
問題は農業人口の減少と減反政策の実質的な延長にある。農業人口の減少は特に地方の零細農家に顕著で、高齢化や機械類の故障などがきっかけとなり、廃業する農家が毎年一定数現れる。一方で新規の参入は少ないから、米の生産量はこれからますます減ってゆく。幸いここ数年は大きな不作もなかったが、今後夏に大きな災害がやってくれば米不足は一瞬にして顕在化するだろう。肥料や燃料などの高騰は稲作の環境をますます悪くするだろう。
一方で新たな動きも起こりつつある。特に注目したいのは消費者と農家の連携である。以前から、京都府下の造酢業者が京都市民などを募って米をつくり収穫した米で酢をつくる取り組みを進めているが、このような、消費者や加工業者が農家と連携する動きが各地で広がりを見せる。環境への配慮も次第に広がりつつあり、米農家が、畜産農家や料理店と連携して廃棄物を堆肥にする動きも活発化している。
今後は、消費者が農家や畜産農家、料理店などと連携して「循環農業」で自家用の米をつくるような事業を展開してゆく必要があるだろう。いずれにせよ、消費と生産の距離を少しでも縮める動きを加速させる必要がある。
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監修・文=佐藤洋一郎
Discover Japan 2024年12月号「米と魚」