神奈川県・横須賀市
《ワインの樹 AKIYA》
三浦半島に誕生した
一棟貸しにもなる美味しい店【序章】
いま日本の食や旅を語る上で外せないキーワード「ローカル・ガストロノミー」。その担い手たるは移住したシェフ。その地域の食材や文化に惚れ込んで移住したシェフだからこそ魅せるローカル体験とは。
逗子、葉山の隣で、最近とみに移住人気が高まっている横須賀・秋谷エリア。のびやかな環境、海山の優れた食材の宝庫であるこの地に魅せられ、2022年夏、東京・恵比寿で人気イタリアン「ワインの樹」を営むオーナーシェフ・佐久間奈都子さんが、美食空間を開いた。
三浦半島に惚れ込んで移住。
ただいま地元と東京の2店舗を切り盛り中
逗子駅から車で15分ほど。秋谷エリアに入ると、空気がふわっとゆるんだ。時折、車窓に小さな海街のイメージを超えた景色が映る。海岸線では浅葱色の海にそそり立つ富士山の眺め。山手へ向かえば、ここ神奈川? と目を見張る牧歌的な田園風景に出くわす。なんとも多様な魅力がある。
「海も山も近くて。有名な観光名所はないけれど、とてもいい風が通るんです。何年住んでも、いいところだと思う」そう言ってほほ笑むオーナーシェフの佐久間奈都子さん。心地いい風が吹く三浦半島に、20代の頃から恋してきたという。11年前に恵比寿で店を開いてからは、食材を仕入れに3日と空けず通い続けたある日、ふと思い至る。
「こんなに通って苦にならないなら、三浦に住んで仕事場に通えばいいんじゃないかって」。ひと目惚れした築100年の古民家との出合いもあり、子どもが保育園に入るタイミングで、移住を実行したのは6年前のこと。
まずは自宅、いずれ店もと2ステップ移住を算段した佐久間さん。コロナ禍にその機来たりと、海に近い小路に建つ古家を店に改装。ただ、家族のような常連たちの「恵比寿の店がないと困る!」の声が掛かり、修正案を練る。しかして、平日は東京、週末は地元と2店掛け持つスタイルに帰結した。
かつてイタリアンの名店で飲食の研鑽を積んできた佐久間さん。本格的な料理修業はしていないと言いながらも、鋭敏な舌と生来の感性で、常連客でも常に飽きさせない、彼女ならではの美味があるのだ。
「私の料理は生産者ありき」。その信念は、地元に生活の根を下ろすにつれ、生き方とも重なってきた。自宅で庭先養鶏をはじめ、日々、田畑を眺め、土や海の匂いを肌身にまとう。おのずと生産者との親交も深まった由。
この日は、とりわけ愛すべき地産の仕入れコースを案内してもらった。
旬菜は絶対ここ、と信頼するのは、腕利きシェフたちがこぞって通う「高梨農場」の直売所。「高梨さんの畑はおもしろいんです」と顔を輝かせる佐久間さん。海を見晴らす畑には、チーマ・ディ・ラーパなど、珍しい西洋野菜たちが健やかに葉を伸ばしている。
「料理人の声に応えるうちに、種類が増えてしまって」と農場主・高梨雅人さん。畑を歩きながら、栽培の工夫や野菜の特徴など、熱心に語ってくれる。丹精の畑ほど、学びの多い教室はない。
お次は魚。馴染みの鮮魚店は佐島漁港に隣接した「丸吉商店」。店先ではさっきまで海で泳いでいた魚たちがぴちぴちはじけ、「どこよりも早く、新鮮な魚が入るよ!」とイキのいい声が掛かる。すかさず佐久間さん、太刀魚を三枚に下ろしてとリクエスト。そばで手際のいい包丁さばきを真剣に見つめる。「魚の扱いはまだまだ勉強中。もっと早くきれいに下ろせるように、プロの技を現場で見て倣っています」。
肉もしかり。数年前から仕入れがかなったジビエは、この人! と惚れ込んだ宮城の猟師さんの元へ通い直談判。貴重な「生きた肉」が届くようになり、、畢竟自らで鴨の羽をむしり、肉をさばく術も身につけた。
優れた食材は手にしたら、どうしたら持ち味を最大限に生かせるかに、ひたすら注力する。その情熱が佐久間さんの料理世界をぐいぐい広げ、食べ手は胃袋とハートをつかまれるのだ。
「野菜も魚も鴨も、時季のもので、いつでもは食べられない。でも旬の特別な美味しさを何度か味わえば、そろそろあの料理の季節だよね、とお客さんも心待ちにしてくれるようになって。そんなやりとりが楽しいんです」
「ワインの樹 AKIYA」には「食べさせたい、喜ばせたい」のもう一歩奥に、つくり手や季節を「伝えたい、つなげたい」物語がある。
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text: Reiko Oishi photo: Maiko Fukui
Discover Japan 2023年3月号「移住のチカラ!/移住マニュアル2023」