TRADITION

古代までの“航路の歴史”
〈太古~平安時代前期〉
日本の海の道はどのように変化していった?

2025.8.10
古代までの“航路の歴史”<br><small>〈太古~平安時代前期〉</small><br>日本の海の道はどのように変化していった?
『東征伝絵巻』/唐招提寺所蔵

人々の暮らしを支えてきた「海の道」にかかわる日本の歴史をひも解く。日本では、古くから海や川を交通路として通行に利用しており、1世紀以降に作成された中国の史書から中国や朝鮮半島に使者が送られていたことが知られている。太古~平安時代前期の航路の歴史とは?

監修=綿貫友子(わたぬき ともこ)
東北大学大学院文学研究科修了。大阪教育大学教授を経て現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。日本中世・近世の海上交通とそれを利用した流通を研究する。博士(文学)。

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太古から大陸と日本を結んだ海の道

古墳から発掘された副葬品。上部のしっかりとした構造から、波の荒い外洋に乗り出す船をモチーフにしたと考えられる
船形埴輪/ColBase

日本列島は文字による記録が伝わる以前の時代から、海の道を介して海外とつながってきた。大陸との交流により先進的な鉄器(武具や馬具)・その他金属加工品や工芸品(青銅鏡や装飾品など)・須恵器といった生産、機織り、文筆、乗馬などの諸技術がもたらされた。

墳丘を築き石室を備えた埋葬施設である古墳造営の土木・石材加工技術も大陸から伝わった。沿岸部に築かれた巨大古墳は、海からの目印にもなったことだろう。漢字による文書の作成は、古代律令制度が運用され中央集権国家が形成されるうえでの基盤となり、仏教や暦はその後の社会に大きな影響を及ぼすこととなった。

遣唐使も旅立った
日本初の国際貿易港・博多

鴻臚館は、博多湾に面した丘陵地(現在の福岡城跡地内)にあった。遺跡からは、中国や西アジアの陶磁器など国際色豊かな遺物が出土した。写真は「鴻臚館跡展示館」
写真提供=福岡市

古来、大陸との交流拠点としての役割を担ってきた博多。博多津は律令制下で西海道(九州地方)の統治・外交・防衛の拠点として置かれた大宰府の外港にあたる。博多湾に面して建てられた「筑紫館つくしのむろつみ」には外交使節だけでなく遣唐使も滞在し、9世紀半ばに「鴻臚館こうろかん」と改称された頃からは大宰府の管理下で行われる貿易の拠点へと役割を変えた。

博多津は、中世以降も宋や明などとの交易で発展し、近世には江戸に米を運ぶ筑前五ケ浦廻船の拠点として、近代初頭にかけては北前船の寄港地としても栄えた。

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〈平安時代後期~戦国(安土桃山)時代〉
航路の歴史

 
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text: Discover Japan
2025年7月号「海旅と沖縄」

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