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《生誕120年 猪熊弦一郎展》
香川の元祖マルチクリエイター・ 猪熊弦一郎の全貌に迫る

2022.9.12
《生誕120年 猪熊弦一郎展》<br><small>香川の元祖マルチクリエイター・ 猪熊弦一郎の全貌に迫る</small>
猪熊弦一郎《顔80》1989年丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

20世紀の日本を代表する、画家・猪熊弦一郎氏の生誕120年を記念する「猪熊弦一郎展」が、9月17日(土)〜11月6日(日)まで、神奈川県の横須賀美術館で開催される。猪熊氏は東京美術学校(現在の東京藝術大学)で西洋絵画を学んだ後、パリ、ニューヨークを経てハワイにも拠点をもち、絵画のほかにも壁画やテキスタイルデザイン、本の装丁などを幅広く手がけた。生誕120年を記念する本展では、彼の作品から社会の中で芸術家が担う役割を読み解く。

猪熊 弦一郎(いのくま・げんいちろう)
香川県に生まれ(1902~1993年)。東京美術学校で藤島武二氏に師事した。1934年までは帝展で、1936年に新制作派協会を結成すると以後同展を中心に作品を発表。1938年渡仏し、マティス、ピカソと交流。第二次世界大戦の戦火を逃れて帰国した後はフィリピン、ビルマに派遣され作戦記録画を制作、戦後は三越百貨店の包装紙デザイン(1950年)をはじめ、慶應義塾大学学生ホール(1949年)や上野駅中央コンコース(1951年)の壁画を手がけるなど、社会とのかかわりを強めていきた。1955年再渡仏の途上で立ち寄ったニューヨークに魅せられ同地に留まり約20年間制作を続け、1975年からはハワイと東京を拠点に制作するようになった。少年時代を過ごした丸亀市に猪熊弦一郎現代美術館が1991年に開館すると所蔵する全作品を寄贈。

生誕120年を機に、
改めて猪熊弦一郎の仕事を振り返る

猪熊弦一郎《サクランボ》1939年丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

初期作品
1921年丸亀中学校を卒業した猪熊弦一郎氏は、東京美術学校受験のため上京し岡田三郎助主宰の本郷洋画研究所に学んだ。翌年入学した東京美術学校西洋画科では、のちに画家として活躍する岡田謙三氏、小磯良平氏、荻須高徳氏、中西利雄氏、山口長男氏らが同学年にいた。3年からは藤島武二氏の指導を受け、1926年に《婦人像》で帝展に初入選、その後、《座像》、《画室》で特選となり、1933年以降無鑑査となった。

しかし、1935年の帝展改組に反対して帝展を離れ第二部会に参加、その第1回展に《海と女》を出品した。翌年、新文展参加を表明した第二部会を脱退し、光風会も脱退した猪熊氏は「一切の政治的工作を否定し、純粋芸術の責任ある行動に於て新芸術の確立を期す」ことを掲げ、小磯良平氏ら有志と新制作派協会を結成。第1回展に《二人》、《馬と裸婦》を出品した。

パリ時代
1938年7月、35歳の猪熊氏は妻文子と共にパリに到着した。東京美術学校の同級生から遅れること約10年、念願のパリ行きだった。当時のパリは世界中から画家が集まる最先端の芸術都市で、猪熊氏が現代最高の画家として尊敬していたアンリ・マティスとパブロ・ピカソもパリで活動していた。滞仏中、マティスに自作を見てもらった猪熊は「お前の絵はうますぎる」という言葉に大きな衝撃を受けた。それはつまり「自分の絵になっていない」という意味で、画家として根本的な見直しを迫られることになった。

猪熊弦一郎《マドモアゼルM》1940年丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

戦中戦後
フランスから帰国後、軍部から従軍の命令を受けた猪熊氏は、1941年に中国文化視察のため南京方面に派遣された。そこで目にした子どもたちの姿を描いたのが《長江埠の子供達》である。翌年、陸軍省派遣画家の一人に選ばれ、フィリピンに派遣された。5月には記録画制作のため陥落直後のコレヒドールに入り、凄惨な光景を前に手当たり次第にスケッチをした。1943年6月、小磯良平氏と共にビルマに派遣され、ビルマ独立式典、泰緬鉄道建設現場などを取材した。

1944年9月、藤田嗣治氏や新制作派協会会員たちと神奈川県津久井郡吉野町(現在の相模原市緑区藤野)に疎開し、終戦をこの地で迎えた。1946年疎開先から東京に戻った猪熊は雑誌の表紙絵や挿絵を手がけ、1948年からは「小説新潮」の表紙絵を担当した(1989年9月号まで)。この時期の猪熊氏は新制作派協会建築部創設に尽力し、1949年に慶応義塾大学学生ホール壁画《デモクラシー》、1951年に上野駅中央ホール壁画《自由》を制作するなど、意識的に社会との関わりを強めていった。

猪熊弦一郎《三人の娘》1954年横須賀美術館蔵©The MIMOCA Foundation

ニューヨーク時代
1953年に父を看取った猪熊氏は、長年の画業を見直しと画家としての再出発を期して再びパリに行くことを決意した。ニューヨークに立ち寄ってパリに行く予定で日本を出発したのは、1955年10月、52歳の時だった。経由地のサンフランシスコからアリゾナの砂漠を横断しサンタフェ、デンバーを経て空路ニューヨークに入った。アパートを借りた95丁目には多くの芸術家が住んでおり、ソール・スタインバーグ、マーク・ロスコらとの交流が生まれ、短期滞在の予定がニューヨークに居を定めることになった。ウィラードギャラリーと契約し、翌年初個展を開催した。「何とか払いのけようとあがき続けた具象の影はこの街でゴソッと落ちてしまった。楽に、気持ちよく仕事ができるようになった」と記している。ニューヨークでは2年に一度のペースで計10回の個展を開催した。

猪熊弦一郎《風景CX》1972年京都国立近代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

ハワイ時代
1973年の一時帰国中に脳血栓で倒れた猪熊氏は、ニューヨークでの活動が困難になったため1975年にアトリエを閉じた。それ以降、冬は温暖なハワイで、それ以外の季節は日本で制作するようになった。「私はハワイに住むようになって、⾊のコントラストが⾮常に鮮やかになりました。これは東京やニューヨークでは決して出来ない⾊彩です。底抜けに明るいハワイの環境が⼤きく影響している筈です」と述べているように、ハワイでの制作は作品にさらなる変化をもたらした。1988年には60年以上連れ添った妻が他界し、猪熊は大きな喪失感を抱いた。だが、妻の死後に始まる「顔シリーズ」によって新たな展開を得た。「絵描きには定年がない。死ぬまで未知のものに向かって走り続ける」という言葉通り、1993年5月17日に90歳でこの世を去るまで精力的に活動を続けた。

猪熊弦一郎《驚く可き風景(B)》1969年東京国立近代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

デザインの仕事
猪熊弦一郎氏のデザインの仕事でまず思い浮かぶのは、三越の包装紙「華ひらく」だろう。1950年に猪熊氏が千葉の犬吠埼を散策中に拾った石をモチーフにデザインし、当時三越宣伝部にいたやなせたかしが「Mitsukoshi」の文字を書き入れた。日本の百貨店で初めてのオリジナル包装紙で、当初はクリスマスプレゼント用包装紙だったのが1951年7月から三越全店で使用された。1957年から2014年まで使用された三越ショッパーも猪熊氏のデザインによる。

猪熊弦一郎《顔80》1989年丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵©The MIMOCA Foundation

画家のアトリエ
旅先で心惹かれて買い求めた品や友人から贈られた品、拾った石や手近にある紙などを細長く巻いてその上から針金を巻いて作った作品「対話彫刻」などアトリエにあるさまざまな物を写真とともに猪熊自身の文章で紹介した『画家のおもちゃ箱』(文化出版局、1984年/絶版)には、イーゼルや画材のほか、絵を描いた後にパレットから捨てられた絵の具が取り上げられている。展覧会ではこれらの品も展示する。

少年時代を過ごした香川県丸亀市の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の協力のもと、約70年に及ぶ創作活動を振り返る「生誕120年 猪熊弦一郎展」を、ぜひご覧になってみてはいかがだろうか。

生誕120年 猪熊弦一郎展
会期|9月17日(土)~11月6日(日)
会場|横須賀美術館(神奈川県横須賀市鴨居4-1)
開館時間|10:00~18:00
休館日|10月3日
料金|一般 1300円、高大生・65歳以上 1100円、中学生以下無料
※11月3日は無料観覧日
Tel|046-845-1211
www.yokosuka-moa.jp

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