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【第3回】九州、幕末 蓑虫山人は西郷隆盛を救ったか?後編
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.5
【第3回】九州、幕末 蓑虫山人は西郷隆盛を救ったか?後編<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第3回は、蓑虫山人が西郷隆盛を助けた逸話についての後編です。
≪前編を読む 

蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー

鹿児島県錦江湾、波は小さく桜島は大きい。
この沖で西郷と月照は入水自殺をすることになる

江戸時代の巨漢力士・大空武左衛門を描いた絵。なんと身長は227㎝! 牛跨ぎという異名をもっているほどだ。蓑虫の生まれる前の人物で実際に出会って描いたわけではない。武左衛門の出身地である熊本で話を聞きその驚きを絵にしている(安八町所蔵)

大分県宇佐市の絵日記のほかに、九州での絵日記はもうひとセット残されている。
もともとは岐阜県郡町不破郡垂井町不退寺のに残されていたものだが、いまは蓑虫山人(以後、蓑虫)の生まれた安八町の収蔵となっている。1冊と言わないのはとじられたものではなく、90枚ほどバラバラの状態で残されているからだ。何枚かの絵日記に記載された日付を見ると、21歳くらいの若い頃のものから、宇佐市に入る少し前の27、28歳頃、主に熊本・長崎を中心とした絵日記のようだ。相変わらず絵日記の蓑虫は寺社と滝好きで、それらの観光と取材に精を出している。

幕末、日本は混乱していた。佐幕派(幕府に追随する思想)と倒幕派、攘夷派と開国派とに分かれ、その動きは特に西国で活発化していた。中でも当時の薩摩藩主・島津斉彬によって登用された、まだ若い西郷隆盛と大久保利通を中心とした薩摩や、吉田松陰や高杉晋作などの活躍した長州藩などは、陰に陽に倒幕へ向けての藩論を激化させていた。同時代を生きた蓑虫自身も勤皇の志士としての活動に身を投じていたといわれている。著名な勤皇の志士で後に生野の変を起こす平野国臣とも関係があったらしい。

蓑虫23歳。安政5年11月16日、後に天下の耳目を集める大事件が起きる。明治維新の主役の一人である薩摩の西郷隆盛と勤皇派の僧・月照が桜島を望む錦江湾で入水自殺を起こすのだ。

その経緯をほんの少しだけここで説明する。当時の歴史背景はやや複雑だが、極力簡潔にまとめると次になる。

──大きく重要な背景はふたつ。“安政の大獄”と“島津斉彬の死”だ。当時の幕府は大老・井伊直弼によって、強烈に勤皇派を締め付けはじめていた。これを安政の大獄という。幕府側にも多少の理由はあったが、完全な武力弾圧だった。薩摩藩の島津斉彬はそこに唯一対抗できる存在であり、実際、兵を率いて京に入る準備も進めていたのだが……、残念ながら志半ばで急死してしまう。斉彬に心酔していた西郷は主君の死を大いに悲しみ、その後を追い殉死しようとしていた。それを止めたのが、かねてから西郷と交流があった京都は清水寺の僧・月照である。斉彬の意志を継ぐことこそが西郷の役割だと月照は西郷を説得し、その自死を思いとどまらせたのだ。しかし、京都では勤皇派は次々に捕縛され、そもそも勤皇派であった月照の命も危なかった。西郷は月照を薩摩に逃がそうとしたが、斉彬亡き薩摩藩は政治的に佐幕(幕府に追随する思想)に大きくかじを切っていた。薩摩藩は月照を匿うことはおろか、結局は殺そうとしたのだった。

要するに西郷は絶望したのだ。
抱き合って冬の海に飛び込んだ西郷と月照は、このときに船に同船していた月照の従者である大槻重助らに助けられ、西郷のみが一命を取り留める。このとき、平野国臣も同乗していたというが、酒に酔って救出に参加しなかったともいわれている。

この西郷を助けた重助とは自分のことだと、そう蓑虫は言っているのだ。しかしこのことは自身の談話以外に確たる証拠はない。

もうひとつ、蓑虫の志士活動としてのトピックは「生野の変」だというが、こちらにもあらゆる記録に名前は出てこない。

あらためて、これらの話はいったいなんなんだろう。本当なら蓑虫は幕末の重要人物だ。前編(2019年7月号に掲載)でも述べたが、これは蓑虫の「スベらない話」のひとつだったのだろうか。筆者らは蓑虫のホラ話にただただつき合わされているのだろうか。

伊呂波川に歌碑を訪ねる

主に長崎・熊本県下を回っていたときの絵日記。上)石碑は現在の長崎駅を望む丘に立つ望呉山の碑。眺めが最高だったのだろう。左中)絵は松尾芭蕉の文台。俳諧の宗匠となることを「立机(りっき)」といい、その証しが文台である。地味だがこれは重要なアイテムだ。蓑虫は熊本・八代城下で見た文台を絵にしている。サイズまで書いているところを見ると後で同じものをつくろうとしたのかもしれない。左下)宮本武蔵の墓。当時はこんな街道沿いにあったのだろうか

前編に続き、再びの大分県宇佐市。生野の変で敗れた志士たちを悼む句を読んだ(前編参照)歌塚をつくり捕縛されたという伊呂波川の川沿いの禅源寺。現在の住職は麻生直道氏、蓑虫が滞在した時期というのは前々住職の頃となる。
「その頃のことは全然わからないんですよ」と住職は申し訳なさそうに話しはじめる。僕らは「はあ」と気の抜けた返事をして、奥さまに点てていただいた抹茶と茶菓子をいただく。歌塚はいまとなってはどこにつくられたのか、本当にあったのかすら記録には残っていない。残っているのは蓑虫が作庭したという庭と、禅源寺の裏の山にある、こちらも蓑虫がつくったといわれる歌塚とは別の、歌碑だけということだ。

庭を見せてもらい、その歌碑を案内してもらう。歌碑に続く山道の脇のところどころに小さな石仏が置かれている。道は次第に角度を上げ、道というよりもほとんど急斜面を歩いていく、ズルズルと滑りそうになりながら10分ほどの道中の先にその歌碑はあった。

朝な夕な 民やすかれと おもふ身の こころにかかる異国の船

幕末時の天皇でもある孝明天皇の歌だ(少しだけ言い回しが違うところがあるのが気になるが)。孝明天皇は外国嫌いの天皇として有名で、尊王攘夷という大義名分の旗印となっていた。外国嫌いは鎖国のその当時の危機感からしたら仕方のない部分がある。

この碑には作者の名前はどこにも彫られていない、ただ蓑虫作との伝があるだけだ。わざわざ疑う必要があるかどうかわからないが、名前もそれにまつわる文章もない限り、これも本当のところは誰の作なのかはわからない。ただ、筆跡は後年の絵日記などに書かれていた蓑虫のもののように思える。

住職の家の玄関にあったに襖もかつて蓑虫の絵ではないかと思われる絵が描かれていたという。誰かと誰かが酒を飲んでいるような絵だった記憶があると住職は教えてくれたが、それもいまはない。住職としても確たる記憶ではないそうだ。

蓑虫のコラボレーション癖

九州のものも後々の絵日記も含め、蓑虫の特徴のひとつは「コラボ」好きだということだ。蓑虫が絵を描き、それに対して別の誰かが言葉を寄せ、一枚の絵を完成させている。たいていはその絵を描いたときにその場にいた誰かに文字を書いてもらうというセッション方式だったようだが、それがあまりにも多いため、蓑虫は文字が書けないのではないかなどと後の研究者からも誤解されていたりした(実際はかなりの達筆である)。また、自分の言葉ではなく有名な句を引用したりもしていて、蓑虫にとっての表現とはあくまで絵であって、言葉や文章についてはその時に適切だと思われる人や、既存の歌や句などで、その時々のコラボレーションを楽しんでいた。

そう考えてこの禅源寺の歌碑を眺めると、自分の歌ではなく誰かの歌というところに蓑虫らしさがあるように感じる。また生野の変の後に詠んだといわれる(前編参照)、「議論より実を行え なまけ武士 我が打つ太刀の 血煙を見よ」という歌も実は蓑虫のオリジナルではない。上の句は生野の変で敗れ自刃した長州の南八郎の詠んだ「議論より実を行え なまけ武士 国の大事を 他所に見る馬鹿」、下の句は生野の変と時を同じくして蜂起した天誅組の土佐の吉村虎太郎の辞世の句「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」だ。このふたつの変は連動しており、そして同じように無残な結果に終わっている。

当時の短歌は現在でいうポップスのようなものといってもいいだろう。有名な句や優れた句は庶民が鼻歌で口ずさむくらい共有されていた。それでもふたつの句を合わせるようなことは珍しく、これはもはやコラボというよりもサンプリング。蓑虫独特の両者への追悼であり、世間へのアジテーションだったのだろう。

蓑虫山人は西郷隆盛を救ったか
もしすべてが蓑虫のホラ話だったとしても。

禅源寺住職の麻生直道さんと歌碑。寺の裏山の中腹に立てられている。実は、取材ということで前日にそこまでの道の下草や枝の剪定をしていただいた。ありがとうございます。

薩摩——鹿児島、夕暮れの錦江湾。福岡県北九州市から続く日豊本線の電車が海岸線のすぐそばを通る。線路の脇、踏切の近くに月照とともに入水自殺した西郷隆盛が介抱されたという小屋がいまも残っている。海、そして桜島が大きい。

少し離れた場所にそのときに介抱をしたという土地の漁師の子孫が「南洲茶屋」という茶屋を開いている。少しだけ当時のお話を聞く。「漁師だったおじいちゃんたちが見つけ、お水を入れていた甕にわらを入れて急ごしらえで火鉢にしたと聞いています。西郷さんはそこの小屋にひと月ほど匿われ、静養していました」。茶屋でいただいた団子はとても美味しかった。

偶然でもなんでも歴史の転換点に立ち会える人間はどのくらいいるのだろうか、またどういう人物が歴史をつくっていくのだろうか、そんなことを考えながら暗くなる海を眺める。

蓑虫の勤皇の志士活動についていくら調べても文章に残された証拠はひとつも見つからなかった。しかし状況証拠は意外と多い。

禅源寺の茶室から見る庭。蓑虫の作と伝えられている。いまでもこの庭を見ながらお茶会を開いている

月照の薩摩入りに同行し、西郷と月照が入水した屋形船にも同船していた平野国臣は、蓑虫と旧知の間柄といわれている。月照と平野国臣が薩摩に向かっている時期に、その動線上でもある肥後熊本に蓑虫が滞在していたことは、不退寺に残された絵日記で確認されている。月照は罪人として幕府に追われている存在で、薩摩入りは危険の伴う隠密行動だったことを考えると、志士でもなく政治活動とは関係のない寺男の重助を連れていくだろうかという疑問も浮かぶ。

これは想像の話だが、蓑虫は平野国臣と知らぬ仲ではない志士、しかも藩や家柄に縛られていない自由な存在。14歳からの旅で鍛えられた蓑虫はこのとき23歳、少し変わり者だがこの危険な道中にうってつけの人物だったのではないだろうか。

西郷はこの事件の後、仲間の手引きもあり、月照とともに死んだこととして奄美大島に3年間身を隠すこととなる。実はそのときに西郷の使っていた変名が「菊池源吾」という。菊池は西郷の出身の村のルーツの名前、そして源吾は蓑虫の本名だ。ほかにこの名前を使う理由も見当たらず漢字も同じ。

これを偶然と片づけるのは少し無理があるのではないかと思う。たとえ蓑虫が重助でなかったとしても、この道中のどこかでか、西郷の活動のどこかで、西郷と蓑虫はつながり、その使われていない「源吾」を西郷はいっとき拝借したのではないのだろうか。

いまとなっては真実を確認することはできない。——もしすべてが蓑虫のホラ話だったとしても、本当だったとしても、そのわからない感が彼らしい、と、筆者は思っている。

生野の変には蓑虫は参加していないだろうと思う。同年同月の日付の書かれた熊本での絵日記が見つかっている。実際の生野の変は失敗だった。たくさんの志士が無残にも倒れていった。平野国臣は生野の変で京都の六角の獄に入れられそこで処刑されてしまう。

しかし生野の変で主将として担がれた勤皇派の公卿・澤宣嘉は後に蓑虫にこんな句を贈っている。

「なきがらの 真心ときて世の人に まごころさとす 真心の君」

「まごころ」が多過ぎてよく意味がわからないかもしれないが、大意としては、「死者の思いを世の人に伝えてくれたあなたは優しい人だ」となる。これは歌塚を指しているように読める。

また蓑虫は、明治23年、念願であった六十六庵設立(前編参照)の題字を書いてもらうために、維新の元勲・勝海舟に会いに行っている。そのときにも自身のことを詠んでもらっている。

「あぶら虫 根切り虫多き 世の中に ひとり蓑虫 かくれてぞ棲め」

西郷隆盛が助けられ約1カ月匿われていた小屋。中には入れないが、いまでもその場所に残されている。「南洲茶屋」で炙っていただく団子は美味しい。ここからも桜島がはっきりと見える

実際、蓑虫には当時の勤皇の志士たちの知り合いは多かったようだ。志士としてともに駆けずり回った仲間たちは、新政府の中で栄達していった。それらを尻目に、一人蓑虫は旅の空へと向かう。

明治10年、蓑虫山人は東北の地に降り立つ。土偶に出合い、庭をつくり、その土地を絵に残す。

次回からは蓑虫山人の一番得意な時期である東北漫遊日記を3回に分けて紹介しようと思う。その足跡はまずは岩手に現れる。

 

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文=望月昭秀 写真=田附 勝
2019年9月号「夢のニッポンのりもの旅」


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