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【第2回】九州、幕末 蓑虫山人は西郷隆盛を救ったか?前編
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.3
【第2回】九州、幕末 蓑虫山人は西郷隆盛を救ったか?前編<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第2回は、蓑虫山人が西郷隆盛を助けた逸話についての前編です。

蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー

 

時代は沸き立っている。
日本という国に青春時代があったとしたら、それは「明治維新前夜」なのではないだろうか、筆者はそう思っている。たくさんの志をもった若者たちが国を憂い理想に燃え、そして倒れていった。無謀だっただけの者もいた。短絡で直情的な者もいた。沸き立った時代はいわば青春狂想曲の様相を帯びていた。そんな中、坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎などの風雲児たちが、ついにはその時代を自らの手に引き寄せていった。やがて維新は成る。そのことはあらためてここで話す必要はないだろう。

「議論より実を行え なまけ武士 我が打つ太刀の 血煙を見よ」

この勇ましい歌は、が詠んだといわれている。彼もまたその狂想曲の音階のひとつとして西国を奔走していた。蓑虫もまた維新の礎を積み上げた一人であった。

晩年、蓑虫は名古屋で甥の光孝に昔を振り返りこう語っていたという。「あの西郷南洲(西郷隆盛)と月照和尚が、薩摩の海に船を浮かべ、相抱き合い入水自殺をしたときに、その船に乗り合わせ、両人を救助した寺男の重助と伝えられておるのは、実はこの俺であった」

月照は死に、西郷は一命をとりとめた。もしこのときに西郷が薩摩の海に沈んでいたら、日本の歴史も大きく変わっていたのかもしれない。

また、勤皇派の公卿を担いで平野国臣が起こした生野の変にも蓑虫は参加。前述の“血煙”の歌は変に敗れ九州に逃げ延びる途中で詠んだ句といわれている(後編で触れる)。

もうひとつ。蓑虫は大分県宇佐市、伊呂波川のほとりに建つ禅源寺に生野の変で敗れた志士たちを悼む句を三首詠み、歌塚と称した慰霊碑をつくり、それが原因で幕使に捕縛されているという言い伝えもある。これがその歌だ。

「大和魂いづこにありと人とはば この歌塚をさして答へよ」

「いろは川きき渡るにも泣きゆべし まがにしすみし流れなりせば」

「身は露と 消はきゆとと魂は大御歌塚 野辺に仕へむ」

一介の放浪の絵師だと思っていたら、なんということだろう。誠に立派な、真に驚くべきの志士ではないであろうか。
……ところでそれらは本当に本当のことなのだろうか。

幕末明治のボヘミアンとして蓑虫山人も新しいスタートを切る
源吾、蓑虫山人となる

宇佐市に残された絵日記の東椎屋の滝を描いた1ページ、滝を見ながら休憩をしている蓑虫本人が描かれている。この滝はアプローチも素晴らしい。滝ファンでなくてもおすすめの滝

数年さかのぼる。西郷隆盛と月照の事件より2年前、生野の変よりも7年ほど前。土岐源吾21歳、14歳から続く家出は相変わらず、道中の宿もままならない日々を過ごしていた。

ある野宿の夜、梢にぶら下がる蓑虫を見た源吾は、虫ですらキチンとした家を持っているのに人間の自分がこんな状態なのはまったく情けない。と、ひらめき、工夫を凝らして折りたたみ式のテントを兼ねた笈を自作することとなった。これさえあれば宿に困ることがない。それどころかどこでも好きなところに居を構えることができるというものだ。

キャンパー、ノマドワーカー、モバイルハウスの先駆けといってもいいその発明は自身の雅号にも呼応していく。

家を背負った放浪の絵師、“蓑虫山人”の誕生である。
蓑虫には出身地である“美濃”もかかっているのは言うまでもないことかもしれないが、漂泊の先達である松尾芭蕉が、門人の服部土芳の庵につけた“蓑虫庵”も頭の片隅にはあっただろうと想像する。自身が芭蕉の弟子であるかのような気分に蓑虫は浸っていたのかもしれない。

旅は劇的に快適になり、むしろその珍しい笈のおかげで、物見高く珍しもの好きな各地の名士たちに興味本位で家に上げてもらえる機会が増え、蓑虫自身その意外な効能に驚くこととなる。ファルーク・バルサラがフレディ・マーキュリーへと生まれ変わったように、幕末明治のボヘミアンとして蓑虫山人も新しいスタートを切ることとなった。

宇佐八幡宮、宇佐使の様子。下段の群衆の中で蓑虫本人も見物している。別の絵ではこの行列の後、「目出度い御品何なりとも、得んものと」と隙をうかがい、宇佐宮の杜人が上宮から下向する混雑に紛れ御手水の柄杓をいただいて有頂天で逃げ去ったと記している。当時の記録絵としても資料的価値は高い

笈だけではない、絵にも大きな進歩があった。その頃蓑虫は長崎にあり、当時の長崎の文人画の巨匠である鉄翁祖門と出会ったときの話。よっぽど胡散臭かったのか、鉄翁は蓑虫に向かって「仙人の仙人くさきは仙人にあらず」と一喝。それに対して蓑虫は鉄翁の格好などを見て「文人の文人くさきは文人にあらず」と当意即妙に答え、それがきっかけで意気投合し鉄翁に師事することになったと後に語っている。

当時の鉄翁は長崎だけでなく日本中にその名は知られていて、調べると蓑虫が鉄翁とめぐり合ったまさにその年に、当時二十歳の富岡鉄斎(後に日本最後の文人と呼ばれ日本の画壇で重鎮となる)が鉄翁に師事している。

鉄斎と蓑虫はほとんど歳が同じで、同時期に長崎で鉄翁に師事していたということは、どこかでこの二人は出会っていたのではないかと、ワクワクしながら調べてみたのだが、残念ながらその証拠は何ひとつ見つからなかった。それどころか鉄翁祖門の弟子の中にも蓑虫は登場しない。歴史研究の盛んな長崎の研究家にも聞いてみても、蓑虫山人(土岐源吾)という名前は長崎の歴史のどこにも登場しないという。

富岡鉄斎は幼少より勉学に励み、絵画だけでなく、国学、漢学、儒学にも通じていたという。一方蓑虫山人といえば、14歳で家を出て以来、乞食同然の旅生活。鉄斎とは住む世界が違っていたのだろうか。そもそも鉄翁祖門との自体が蓑虫の「盛った」話だった可能性だって高い。ひとつだけ確実に言えるのは、蓑虫山人の「スベらない話」は話半分に聞かなければならないということだ。

勤皇の志士、絵、スベらない話。いまだとらえどころのないその足跡を追跡するため、われわれは九州に向かう。

絵日記・アット・USA

縁側で休む蓑虫。初期の笈が傍に置かれている。形状は現在のハイテクリュックサックに近い

USAといっても大分県宇佐市のことである。ルート(国道)44号線、耶馬渓に向かう途中、当時の素封家である山口家に蓑虫の絵日記が2冊残されている。日記の日付を見ると、1864年の5月から7月、約3カ月ほどの日記となる。蓑虫は山口家に路銀を借りる代わりに絵日記を置いていった。

この時蓑虫は29歳。西郷と月照の入水事件は6年前。その後奄美大島に3年身を隠していた西郷はすでに薩摩藩に復帰している。前年には蓑虫も参加したという生野の変が起こり、幕府はいまだ倒れず維新への道は途上にある。

絵日記の絵は東北で40代になってから描いたものに比べると、上手さはない。しかし、その戯画風とも南画風ともいえる画風は健在。絵日記の中の蓑虫はまだ若く、仙人というには青年の面影が強い。そのトレードマークの笈も後々嫌というほど登場する“東北バージョン”の形状とは違っていて、さらには住居や庵に変形させた様子は描かれていない。これが初代の笈だとして何段階を経て東北バージョンとなっていったのか。

絵日記は神社仏閣、滝や風光明媚な場所とそこを訪れた自分を描いたものが多い。実際に筆者らもいくつかを回ってみた。

大分県、日本を代表とする景勝地であると現在の宇佐市を中心に絵日記に残された場所は約50カ所に上る。蓑虫はそれも3カ月というコンパクトな期間を徒歩でめぐった。どのくらいの距離を歩いたのだろうか、とんでもなく精力的に各地を見にいっている。

福貴野の滝。蓑虫はやや上からの光景を描いているが当時もいまもあまり風景は変わらない。前出の東椎屋の滝、西椎屋の滝(もちろんこちらも描いている)と合わせて宇佐三瀑といわれ、ここは現在でも滝ファンの憧れの場所だ。蓑虫の滝好きはなかなか大したもので、滝を中心に回っているんじゃないかと思えるほどに訪れた場所の滝には必ず行っている

30年前に宇佐市教育委員会ではこの2冊の『蓑虫山人絵日記』を編纂し、出版している。そのときに制作に携わった小倉正五さん(現在は宇佐商工会議所専務理事)は、この蓑虫の旅の目的は60年に一度、宇佐八幡宮に天皇の勅使である奉幣使がやってくる“宇佐使”ではないかと考えている。ちょうどその頃に蓑虫は宇佐市に入り、その様子を日記になんともユーモラスに描いている。「もちろん耶馬渓や各地の名勝を回ってはいますが、なにせ60年に一度というのは大変貴重な機会ですから」と小倉さんは話す。

蓑虫の勤皇の志士活動についてもお話を聞く。「実は蓑虫は宇佐市内で志士活動をしていた勤皇の志士たちとは交わっていません。少なくとも絵日記には残していません」もちろん倒幕につながるこれらの活動はおおっぴらにできるものではなく、絵日記に残さないのは理解できる。しかし小倉さんはこうも言う。「むしろ地元の名士、たとえば官側の人物と会ったりもしています。こう言ってはなんですが、私にはどうしても蓑虫が勤皇の志士だったとは思えないのです」。

確かにこの絵日記から受ける印象は、極端に精力的な観光客か、フットワークの軽い現場主義の取材者の姿だけだ。

絵日記から受ける印象は、 極端に精力的な観光客——だ。
六十六庵設立の夢

「旅中の艱苦災難はかれて期したる事」からはじまる絵日記のひとコマ。悪い顔をした若者の股間をくぐらされている。いまも昔も股間をくぐることは屈辱であった。蓑虫は無念でなんとも形容し難い顔をしている

実は理由がある。
宇佐に入った最初の頃の絵日記で土地の医師であり文人であった筧白雅という人物と意気投合した際に蓑虫は「六十六庵設立」の夢を語っている。この六十六庵とは、一種の博物館のようなもので、蓑虫はそのために日本中を歩いて各地の素晴らしいものや珍しいものを探しているのだと(六十六は江戸時代までの行政区分のこと)。この夢はまさに65歳で死ぬ間際まで語り続けた蓑虫の悲願であった。20代での夢を60代になっても同じように語り続けていたのも驚きだが、尊王攘夷と沸き立つこの国の混乱期に、その渦中に身を置いた者が、その次の自身の将来を夢見て各地の景勝地を、風光明媚をめぐる姿は異様でもある。

この国の将来がどう転ぶかわからない時期に——。格好よく言えば蓑虫の視線は尊王攘夷のその先に向かっていたのだ。

おもしろい絵日記が一枚ある。三人のならず者にからまれた蓑虫が、なんとも情けない表情をして相手の股をくぐらされている。さらにこのときの様子を後に中村秋香(国文学者)が直接蓑虫に聞き文章にしている。長いので要約する。——九州を漫遊中に茶屋に入った際、この近くに住むとおぼしき3人の若者の脱いだ笠に蓑虫の足が触れたとけんかになり、散々に殴られ、這々の体でその場から逃れたことがあった。蓑虫はそのままその地の庄屋の家に向かい、庄屋に茶屋の主人を呼び出せと居丈高に申しつけると、この人物(蓑虫)は幕府の探索方なのではないかと庄屋は勝手に勘違いし、茶屋の主人を呼び、3人の住所氏名を聞き出し、それをまた蓑虫がいちいち紙に書き留めるから、皆ますますそうだと勘違いしてしまった。次の日、別の茶屋で休んでいたら茶屋の主人と3人の若者がやってきて、に昨日の無礼をわび、どうかこのことは内密にしてくれと懇願してきたという。蓑虫は笑って「俺は密偵なんかじゃないから恐れることはない。だけど一般の旅人のためにこういうことがあってはならないから代官所に訴えようと思った。しかし、君たち一同でわざわざ追いかけてきて謝ってきたから、このことはこれまでということで終わりにしよう」と言い、酒を頼み、その後この3人と仲よくなったのだという──。

人形を懐に入れて 旅をする蓑虫
不思議に思っている人もいるかもしれない。蓑虫の懐に小さな子どもがいるのを。これは蓑虫の言うせがれ、小仙人、おぼこ人形。人ではなく子どもの人形だ。現代でもよく小さなぬいぐるみと旅をしてぬいぐるみと風景の写真を撮る人を見かけるが、蓑虫はその先駆けでもある。この絵日記の一枚は甕に映る自分の姿にはしゃぐ子どもの姿。蓑虫はこのような子どものもつ無垢さを忘れないようにと人形を持ち歩いていたようだ

旅先での特筆すべきエピソードとして多少の「盛り」は感じるが、日記にも描かれていることを考えると、きっと実際に股はくぐらされているのだろう。しかもこの図案は蓑虫は後に掛け軸にも描いている。頼まれて描いたのか、何かのお礼として筆を走らせた掛け軸なのだろうか、いずれにせよいったい何を床の間に飾っているのだろうかという気もするが……。

こうも思う。これが冒頭の血気盛んな“血煙”の句を詠んだ同じ男のエピソードだろうか、と。この話やこの絵からは非暴力的でユーモラスな人物像しか浮かんでこない。しかも蓑虫が見物に精を出している1864年の3カ月間では、京都ではとんでもないことが起き続けていた。歴史ファンでなくても名前を聞いたことがあるであろう事件が立て続けに起きる。池田屋事件に佐久間象山の暗殺、禁門の変、そして最も勤皇の気運の強かった長州藩はその強過ぎる愛ゆえに、孝明天皇に嫌われ、朝廷の敵となる。しかも翌月には馬関戦争が勃発し、長州はヨーロッパの連合艦隊に惨敗する。

お話を聞いた宇佐市の小倉さんはこう続ける。「私は蓑虫が西郷を助けていなかったとしても、勤皇の志士じゃなかったとしてもいいと思っています。そういうことよりも、なによりこの絵日記を描いてくれた。その当時の宇佐の風景や事象を、その空気を、絵日記としてこんなにも残してくれたんですから」。

前編終わり、後編に続く。

この絵は明治になって耶馬渓を描いたもの。いつ頃かははっきりとはわからないが、タッチは晩年のこなれたものに思える。この頃見た耶馬渓を思い出して描いたものだろう。右は現在の耶馬渓の夕景。奇岩がそそり立ち、蓑虫好みの景色をつくっている 右)所蔵=ハートピア安八

文=望月昭秀 写真=田附 勝 
2019年7月号「うまいビールはどこにある?」


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