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【第1回】1849年、源吾の家出 蓑虫山人になる前の物語
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.1
【第1回】1849年、源吾の家出 蓑虫山人になる前の物語<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>
蓑虫山人絵日記の一枚。長母寺所蔵。橋の中央で蓑虫の由来となった笈を開いている。最高のロケーションを最大限に楽しみ、得意になっている様子はなんともすがすがしい。長母寺には22冊の絵日記が残されている

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。ほかにも「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称されている。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第1回は、土岐源吾が蓑虫山人になる前の物語についてです。

蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー

幕末から明治、家を背負った放浪の絵師

墓にはこう書かれている「蓑虫庵偏照源吾居士墓 明治三十三年二月廿一日入幽境」

愛知県名古屋市東区の長母寺。これから語りだそうという人物の終焉の場所だ。創建は1179年。歴史のある寺院で、境内の横には庄内川に合流する矢田川が流れ、敷地には緑も多い。

長母寺住職に「蓑虫山人」のお墓を案内してもらう。その日、断続的に降った煩わしい雨がつくった小さな水たまりを避けるように住職の後について庭の踏石を歩く。少し個性的でこぢんまりとしたお墓だ。建てられて100年以上前のそれなりの古さはある。が、十分きれいに手入れされ、墓前の竹の筒には草花が供えられている。お墓のかたちを住職が簡単に説明してくれた。「このお墓は蓑虫本人をイメージしてつくられたようです」 真ん中が少し膨らみ頭に三角形の笠を被った細長い円筒形のお墓は、確かに蓑と笠を被った人物のシルエットのようにも見える。筆者には縄文時代の石棒(せきぼう=男性器を模した、石でつくった祈りの道具)のようにも見えたのだが。

蓑虫山人、本名は「土岐源吾」。虫の蓑虫が家を背負うように=折りたたみ式の(テントのようなもの)を背負い、幕末から明治期にかけて全国を放浪した絵師。美濃国、岐阜県安八郡結村で生まれ、放浪の果てに64歳でこの寺にたどり着き、半年後、近くの別の寺に風呂を借りに行き、風呂上がりに昏倒しそのままこの世を去った。享年65才。脳溢血だったのだろう。

今回の企画の説明をし、取材のお願いをしたときに、住職がぽつりと言った言葉が印象的だった。「——そんなにすごい人なんですかね」。そうだ、蓑虫山人は決して立派な人物ではない。

蓑虫山人とはいったい誰だ

世間的には無名といってもいいだろう。しかし、筆者のような縄文好きからしたらまったく知らない人物ではない。蓑虫(親しみを込めてこう呼ばせていただく)は青森県津軽地方の「亀ヶ岡遺跡」を発掘し、その様子を東京人類学会雑誌に寄稿し、全国にこの遺跡の存在を知らしめた人物の一人だ。亀ヶ岡遺跡とは、縄文晩期の日本を代表する遺跡で、現在東京国立博物館に所蔵されている片足の「遮光器土偶」(日本で一番有名な土偶だ)も、亀ヶ岡出土と伝えられている。この土偶についても、後にこの連載で触れたい。

近代的な発掘方法がまだ日本に浸透する以前、宝探し的な要素の強かった発掘だったにせよ、蓑虫の寄稿の3年後に初の学術的発掘、その6年後にはさらに大規模な発掘が行われていることも考えると、考古学会に何某かの刺激を与えたことは間違いないだろう。

それだけでなく東北の縄文を巡っていると、蓑虫山人の名前を聞くことがある。特に青森、秋田、岩手の三県の郷土館の展示のどこかには、それほど多くはないにせよ、蓑虫作の掛軸や屏風絵を目にすることがある。僕自身、いつ最初に蓑虫の名前を見聞きしたのかあまり覚えていない。

青森県浪岡の「中世の館」という郷土資料館に、蓑虫が描いた1双の屏風絵が展示されている。1双とは屏風6枚折りが2帖の立派なもので、描かれたモチーフは蓑虫の言う神代石器——、縄文時代の土器や石器だ。現代の考古学者が眉根を寄せるかもしれないが、土器には草花や梅の木、ザクロなどが生けられ、ずいぶん風流に描かれている。絵だけでなく、蓑虫は実際にも土偶の頭にひもを付けて根付にしたり、自身の茶道具一式やたばこ入れを亀ヶ岡式土器で揃えていた。それが「粋」かどうか、センスがよいかどうかは別の話だが、なかなかの数寄者で、簡単にいうと変人でもあった。

ユーチューバー顔負けのやってみた精神と行ってみよう精神

もうひとつ紹介したい絵がある。秋田県で描かれた絵日記の一枚だ。橋の中央に笈を開き、月見としゃれ込んでいる。書かれた歌は、「天地の間に立った月と我」と、ずいぶん得意げだ。蓑虫の絵はこのように大きく2種類のものがあり、ひとつはお世話になった人へのお礼としてや頼まれて筆を走らせた屏風絵や掛け軸。そしてもうひとつはこの一枚のような絵日記だ。実は絵日記にこそ蓑虫の独自性が詰まっている。

画面の中央には蓑虫自身の姿が描かれ、出会った人物や、目にした文物、彼自身の自慢やら、そのときの感動が自由で何にもとらわれない筆致で描かれている。日記といってもサービス精神にあふれ、うまい下手ではない楽しさがそこにある。もちろん記録としても貴重だ。そこには当時の人々の生活やお祭り、風景が蓑虫独自の視点で描かれている。

一つひとつ見ていくと蓑虫の作品は見事な作品とそうでないものの差がかなりあることがわかる。そのせいで絵としての評価はまちまちになってしまっているが、そもそも絵日記とはそういうものではないのだろうか。いわゆる南画、文人画の系譜の画風ではあるのだが、誰かに師事したわけでもなく、専門の教育を受けたわけでもなく、ほとんど見よう見まねでつくり上げた技術だったのだろう。長崎で当時の南画の代表的な人物の鉄翁祖門に学んだという話もあり、そのときの興味深い逸話も残っているが、その真偽も少しばかりあやふやだ。いずれにせよ腰を据えて学んだ形跡は見つからない。

それよりも注目したいのは、蓑虫の好奇心と行動力は現代のユーチューバー顔負けの「やってみた精神」と「行ってみよう精神」にあふれているという点だ。その関心は各地の名勝から名画や名品、はたまた人物にまで及び、うわさを聞けば必ずそれを訪ね、それを試し、自身の画風と画題に取り込んでいった。旅の中で絵日記を描き、一宿一飯のお礼に各家の襖や屏風に筆を走らせまくり、自身の蓑虫画風を確立していったのだろう。後に蓑虫も自身の画風を誰に師事したわけではなく「自然から学んだ」と、しゃれたことを言っている。

蓑虫山人——。絵の技術があってもムラっ気があり、立派な人物でもなければ有名でもなく、定職にも就かず、各地で人の厚意に甘え、勝手に穴を掘って、変な格好をして変な行動をして、死に方に立派も何もないものだが、風呂上がりにのぼせて死んでしまう人物だ。そんな人物をわざわざこんなところで紹介するのはなぜだろう、と、彼の菩提寺である長母寺の住職でさえそう思っている。いまここを読んでいる誰もがそう思っていておかしくない。

それでも僕らはこう思う。こんな人物になってはいけない。しかし、こんな人物がいたっていいのだ。

蓑虫山人になる前の物語

弘前大学所蔵の神代石器の図の土偶を描いた部分。紙の目が見えるくらいまで寄ってみると、筆致に迷いがないことがわかる。蓑虫の描く土器や土偶の絵は正確さよりも大切にしているものがある。土偶の横の文字は所有者の名前だ。左の土偶は「蓑蔵」、蓑虫所蔵

蓑虫が岐阜県の結村で生まれたのは前述した通りだ。1836(天保7)年1月3日、土岐源吾(後の蓑虫山人)は武平治とその妾のなかとの間に生まれる。土岐源氏の系譜と家柄はよく、結村では名士であり豪農だった。しかし、父、武平治は俳諧を好み、乗馬に金魚、ひょうたんや花火までを楽しむ好事の人。長年の放蕩で名門土岐家はすでに傾きはじめ、妾の家庭に名門の恩恵はほとんどなかったようだ。

本家との微妙な関係は、10歳にもなれば勘の良い子どもでなくても何か感じるものがあっただろう。母・なかは源吾のほかに姉二人と弟を一人もうけるが、経済状態のせいか兄弟全員が寺に出されることになる。源吾も幼い頃に本家のすぐ近くの受徳寺と琵琶湖の竹生島にある寺院に仏弟子として出されたこともあったという。

14歳の春、源吾は家を出た。家出だ。記録ではその10月に母・なかが亡くなる。家を出たのが春、母親が亡くなったのが秋。しかしこのあたりの時間軸ははっきりしない。後述する引用では母を亡くしたのは8歳となっている。

14歳は江戸時代では元服。縄文時代でいえばはじめて抜歯をする年齢。いまでいったら「中二」にあたる。楳図かずおの名作漫画『14歳』のテーマにもなるように、この歳は多感さの獲得に自意識との長い闘いがはじまる最初の年齢だ。病身の母親を残して家を出たのか、母親の死を看取ってから家を出たのか、いずれにせよ14歳にとって母の死や病気は何かの引き金になる。家出にしては長くなる、源吾の家出はこれから50年近く続く。もはや中二病とはいえない年月が流れることになる。

家柄によって、その後の人生の道筋と限界が、ある程度わかってしまっていた時代だ。全員が自由に生きることはできなかった。社会の枠組みの中にいる限りそれは簡単には突破できない分厚い壁だ。源吾は家を出て漂泊者となることで、思いがけずそこから飛び出してしまった。現代でも社会の枠から飛び出した人物は、社会という大多数に属する人たちからはあまりよくは思われない。少しでも社会に迷惑をかけた途端、自己責任論を代表とするずいぶんと理不尽な総攻撃がはじまる。SNSがないだけで、そういう状況は当時でもあっただろう。

士農工商という四民の枠を捨てるだけでなく、たとえ経済状況が悪かったとしても、家族という後ろ盾を捨てることは社会的にも実際的にも自殺に近いものがある。社会保障など市民同士の互助以外なかった時代だ。

源吾の家出は50年近く続く。もはや中二病とはいえない。
漂泊者として、変人として

どのくらいの覚悟が源吾(蓑虫)にあったのかはわからない。しかし、後の行動や絵日記などから読み取ると、源吾は自分と同じような変人や、漂泊の詩人や思想家といった人物を研究していた節が見えてくる。好んで描いた画題は、達磨大師に、中国の変人コンビである寒山・拾得。また、変人中の変人であり漂泊の詩人でもある李白の著名な漢詩『白髪三千丈』をまねしておどける自身の姿を後に絵日記に描いてもいる。日本でいえばもちろん漂泊の俳人・松尾芭蕉も好きだったようだ。

先達の漂泊者や変人たちに自身の境遇を重ね合わせていたのか、そうなりたいと願い、変な言い方だが漂泊者としての自身を律していたのか。いずれにせよ14歳にして漂泊の路上に踏み出してしまった源吾にとって、先人たちの逸話はさぞ心強かっただろう。たとえ目の前の現実が過酷で人から犬のように追い払われたとしても、理想をもっていれば戦える。ゴミだらけの路地裏で技を磨いたブラジルのサッカー選手が、同じような境遇のスター選手を理想としたように。源吾はスター漂泊者たちをロールモデルにに高潔にストリートを生き抜いていったのだ。

家を出たときの心情を、源吾は後に国文学者の中村秋香に話し、秋香はこのように聞き書きしている。ここでは母の死は8歳、14歳まで継母に育てられたこととなっている。「仙人(蓑虫山人、源吾のこと)年八歳の時、不幸にして母を失ひ、継母の手に養われるが、密かに感ずる所あり、十四歳の時遁走して(家出して)京都に行き、更に転じて東海道を経て江戸に出で、又日光に遊ぶ。素より旅費あるにあらざれば乞食しつつ行くに、道はかどらぬをもて、図らずとも至る所の風土山川を詳悉(詳しく知る)する事を得て、常に耳目を悦ばしめ、家に在りし時よりは、却って心安く、ほとほと處を得たりと思へり」(蓑虫仙人の伝、中村秋香)

旅費がなくても物乞いをしたとしても、泊まるべく場所がなかったとしても、とにかくうまくいかなかったとしても、それでも源吾にとって旅の空は居心地がよかった。

源吾の生まれ育った結村に実際に行ってみる。当時、父親・武平司の住んでいた土岐の本家は堀囲いがあるほど立派な家屋だったようだが、現在その場所は田んぼとなって何もない。源吾の生家は場所さえわからないが、子どもの頃によく遊んだという神社や、仏弟子として出された受徳寺はいまも同じ場所に残っている。

夕暮れの結神社の長い参道を歩き、その時代を少しでも思い浮かべようと試みてみる。蓑虫は生涯独身だったが、結神社は名前の通り縁結びの神さまとして遠方からも婚活中の男女がやってくるという。本殿の入り口にある300年前からそこにいる狛犬と少し笠の欠けた石灯籠が、かつての手触りを少しだけ伝えている。

結村から意外なほど京都は近い。車で走れば約2時間の距離だ。最初の目的地として京都は適地であった。そこからの足取りは前述の通りだが、その後はほとんどわかっていない。京都の後に四国や九州を回ったという話や、牡鹿半島で放牧馬の見張り番をしたり、山形県の農家に見込まれ養子になったという話もあるが、確かな記録はなく真偽のほどはわからない。

家を出て4年、元号は嘉永6年、源吾は18歳。江戸湾の入り口の浦賀に突如4隻の黒船が現れる。いわゆるペリー来航だ。時代はまさに風雲急を告げる。20代、いつの間にか源吾は勤皇の志士となり西国を奔走している。

次回は舞台を九州に移して、蓑虫の青春時代を探ってみたい。
 

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結神社
住所|岐阜県安八郡安八町西結584-1
Tel|0584-62-5414
参拝時間:随時
参拝料:無料

文=望月昭秀 写真=田附 勝 
2019年5月号「はじめての空海と曼茶羅」

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