宮城県・塩竈市《太田與八郎商店》
伝統的な木桶づくりの醤油を次世代へ【前編】|“ニッポンの美味しい”のいまと未来④

作家・料理家の樋口直哉さんが訪ねる、知っておきたい“ニッポンの美味しい”のいまと未来。美味しいものは、生産者の方々なくしては語れません。作家かつ料理家として活躍し、全国の生産者の元へも足繁く通っている樋口直哉さんに、注目の生産者を訪ねてもらい、日本の食の現状と可能性を、生産の現場からひも解いていく。
今回は、日本を代表する調味料・醤油。東日本大震災を経て、昔ながらの木桶で醤油づくりに取り組む、宮城県塩竈市の「大田與八郎商店」を訪ねた。
画一化されていく醤油産業のなかで、
木桶仕立ての醤油に挑戦した

宮城県塩竈は杜の都・仙台から東に位置し、東北有数の漁港を有する港町。その中心にあるのが鹽竈神社で、その門前に店舗と工場を構えるのが「太田與八郎商店」である。もともとは旅籠を営んでいたが、4代目のときに醸造業をはじめ、太田屋さんとして親しまれている。現在の場所に移ってきたのが1889(明治22)年頃、蔵は1925(大正14)年、店舗は1929(昭和4)年に建て替えられたもの……と聞くだけで歴史の重みを感じる。蔵を取り仕切るのは結婚を機に太田與八郎商店に入った太田真さんだ。
工場となっている蔵に足を踏み入れると、醤油のいい香りがした。2011年の震災(東日本大震災)のときは津波の被害に遭ったというが、建物自体は無事だった。足元にはれんがが敷かれ、柱と梁が入り組む高い天井の下に、ひとつの木桶が置かれている。木桶仕込み醤油「あさあけ」を仕込んでいる桶だ。

太田さんがまだ新しい木桶に櫂を入れてくれた。櫂とはかき混ぜるための棒のことだ。
「櫂入れという作業です。醤油を仕込んでいると下に液体、上に固形分が浮いてくるので、こうやって混ぜなければいけない。蔵にはもちろん冷房などないため、重労働なんですけど、はじめの頃はイチゴとかリンゴとか、スイカっぽいようなフルーツ系の香りを感じて、熟成段階に入るとその香りは落ち着いてきて、醤油特有の香りに変わってきます」
醤油は日本人にとって馴染みが深い調味料だが、そもそものところはあまり知られていないように思う。たとえば国内の醤油メーカー数を聞かれて、答えられる人はどれだけいるだろうか。答えは、しょうゆ情報センターの統計によると2023年の段階で1035社。意外と多いと感じる人も、少ないと思う人もいるだろう。ちなみに1955年の段階では6000社あり、それが1980年には2927社まで減った。統計データとしては残っていないが、最盛期には1万社はあったのでは、という話を聞いたこともある。

醤油メーカーが減少した要因のひとつとして考えられるのが1960年代に進められた中小企業近代化促進法に基づく協業化の流れだ。この法律は国が中小企業の生産性を向上させるための計画で、醤油産業の場合は、地域ごとのメーカーがまとまって組合をつくり、最新設備を導入した共同の工場で生産を行うという流れがつくられた。
当時としては効率的な生産と高品質な醤油の生産に寄与した部分は大きかったが、醤油の消費量が減少すると組合工場の存続ができなくなったり、安価な醤油を販売している大手メーカーに対しての独自性、付加価値を生み出すことが難しくなり、結果としてつくり手が減少していった──というわけだ。

いまでは大手メーカーと中堅メーカーで製造量全体の4分の3を担っている。醤油は大手による画一化が進んだ調味料のひとつなのだ。太田與八郎商店も他のメーカーと同様に組合から生揚げ醤油を購入し、火入れやブレンドを施し、醤油を販売している。しかし──。
「もともと、ものづくりが好きなので、自分たちでもやりたかったんですね。震災(2011年の東日本大震災)の後で、もう一回はじめからやれないかな、木桶で醤油が仕込めないかな、という気持ちがふつふつとわいてきて」
太田さんは自前でも醤油を仕込むことを決める。それも木桶で仕込むのだ。
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text: higuchi naoya photo: Kenta Yoshizawa
2025年1月号「ニッポンのいいもの美味いもの」