《平安貴族の食文化》
平安時代にかき氷は高級品だった?【後編】
貴族と庶民で大きく食生活が異なっていた平安時代。権力を握り、豊かな荘園や国を治めていた平安貴族はどのようなものを食べていたのか?京都ノートルダム女子大学名誉教授である鳥居本幸代さんの監修のもと、王朝文学から彼らの食文化をひも解いていきます。『枕草子』や『源氏物語』に記されている当時の食文化とは?
①高級品だったかき氷
『枕草子』より
《先生の解説POINT!》
清少納言が口にした削り氷には、蔦の樹液を煮詰めた「甘葛煎(あまずらせん)」という甘味料がかけられた。氷室(ひむろ)で貯蔵された氷も甘葛煎も貴重なもので、天皇や一部の上級貴族たちにしか味わえなかった。氷の稀少性を物語るものとして、年始の宮廷行事である「元日節会(がんじつのせちえ)」において水・氷の調達、粥の調理をつかさどる宮内省主水司(もいとりのつかさ)が行う氷様奏(ひのためしのそう)がある。それは豊年のしるしとされた氷の厚さと量の記録を氷室ごとに天皇に奏上するものである。
②運動の後に食べた椿餅(つばきもち)
『源氏物語』若菜上の巻より
《先生の解説POINT!》
3月の空がうららかな夕方、光源氏の大邸宅では若い殿上人たちが参加して大規模な蹴鞠の会が催された。後には酒宴があり、参加者には椿餅を配るのが常で、その日は梨や柑子なども供された。椿餅は『河海抄(かかいしょう)』(室町時代に成立した『源氏物語』注釈書)によると、乾燥したもち米を臼で挽いた餅粉に、甘葛煎を加えて練って製した団子を椿の葉で包んだものと記されている。餅は正月をはじめ婚儀、誕生後50日目に行う五十日(いか)の祝いなどハレの儀式に必須のものであった。
③夏を乗り超えるため、 料理に水をかけていた?
『源氏物語』常夏の巻より
《先生の解説POINT!》
今日、私たちが主食としている米飯、つまりうるち米に水を加えて煮たものを平安時代は「姫飯(ひめいい)」(「固粥(かたがゆ)」ともいう)といい、夏期には水に浸した「水飯」にして食べた。『源氏物語』にも釣殿(つりどの)で涼をとる光源氏が、氷水に浸した水飯を口にする様子が描かれている。水飯は肥満防止にも役立ったようで、『今昔物語集』に肥満に苦しむ男性が医師からの進言で、水飯を食するようになった話があるが、白い干し瓜と鮎の馴鮨(なれずし)をおかずにして大食したため効果がなかった。
④まかない飯として重宝した平安のおにぎり
『源氏物語』桐壺の巻より
《先生の解説POINT!》
光源氏の元服は清涼殿で行われ、12歳であった。兄の春宮(後の朱雀帝)のときよりも、下仕えの食事として「屯食」が大量に用意されたという。屯食はもち米を蒸した「強飯(こわいい)」を握り固めたもので、形状は『貞丈(ていじょう)雑記』(伊勢貞丈(さだたけ)著。1843年刊行)には「鳥の玉子のように丸く少し長くしたものをいう」と記されているように鶏卵形であったらしく、『河海抄』では柏の葉で包んだといわれている。なお、強飯は「大床子の御膳」に高盛(たかもり)にして供された。
⑤贈り物でもあった平安のスイーツ唐果子(くらくだもの)
『枕草子』より
《先生の解説POINT!》
藤原行成(ふじわらのゆきなり)が蔵人頭(くろうどのとう・秘書官長)を務めていた頃、清少納言に宛てた手紙に餠餤と称する唐果子をふたつ添えて送られてきた。餠餤は餅に鳥の卵や野菜を入れたものといわれている。唐果子は米や小麦などを粉末にして、油で揚げるなど加工した中国伝来の菓子で、特別な儀式における御膳に供された。『倭名類聚抄』には餲餬(かっこ)・黏臍(てんせい)・饆饠(ひちら)・餢飳(ぶと)・粉熟(ふずく)などの名が列記され、形状も特異なものが多い。
⑥正月の終わりに食べる健康食、若菜の羹(あつもの)
『源氏物語』若菜上の巻より
《先生の解説POINT!》
左大将の妻となっていた玉鬘(たまかずら)は、養父・光源氏の健康長寿を祈って若菜を献上した。宮廷では正月7日、あるいは正月子(ね)の日に行われ、「供若菜(わかなをぐうず)」と呼ぶ年中行事であった。7日には7種、子の日の場合は薊(あざみ)・苣(ちしゃ)・芹(せり)・蕨(わらび)・薺(なずな)・葵・芝・蓬(よもぎ)・水蓼(みずたで)・水雲(もずく)・松など12種類の若菜を羹(熱い汁物)にした。ちなみに、室町時代以降、若菜の羹が粥に変化して「七草粥」となったようである。
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監修・文=鳥居本幸代
Discover Japan 2024年11月号「京都」