二条城を後水尾天皇のために1.5倍に?
徳川家と朝廷
徳川家康によって位を高め、2代将軍・秀忠、3代・家光と同時代を生き、あの『洛中洛外図屏風』にも登場するという後水尾天皇。徳川家は後水尾天皇を迎えるために二条城の敷地を約1.5倍にしたとまで言われているが、その背景には何があったのだろうか。
108代 後水尾天皇
1596(文禄5)年、後陽成天皇の第3皇子として誕生。徳川家康の後押しにより16歳で皇位につき、徳川和子との間に生まれた娘・明正天皇に34歳で譲位した。修学院離宮を自ら設計するなど、文化面でもセンスを発揮。和歌や華道を好み、この時代に花開いた寛永文化の担い手に。歴代天皇の中でも高齢となる85歳で没する。
二条城が築城されたのは1603(慶長8)年。天下人となった家康は、伏見城で将軍宣下(※1)を受けた後、二条城から御礼の参内へと向かった。洛中の城は、幕府と朝廷の間で政治的な往来のある、儀礼用の性質をもっていた。武家政権の長である征夷大将軍を任命するのは朝廷だ。一方、幕府は経済的に朝廷を支えていた。
秀忠の娘・和子の後水尾天皇への入内(※2)がかなうと、家光は次の目標である行幸に向けて二条城を大幅に改修。このとき、二の丸御殿の障壁画は狩野派が手掛け、二の丸庭園は大広間(東側)・黒書院(北側)・行幸御殿(南側)の3方向から観賞できるよう、小堀遠州が石組みを直した。
※1 朝廷が征夷大将軍を任命すること
※2 皇后等に決まった女性が正式に内裏に入ること
1626(寛永3)年、ついに行幸が実現。饗宴は5日にわたって行われ、能や和歌などの会が盛大に催された。和子を入内させた徳川家の狙いは、血筋を天皇家に入れ、影響力を保つこと。和子は2人の皇子を生んだがいずれも早世。夢ははかなくついえた。
江戸城を拠点とした幕府の統治が安定してくると、将軍が上洛する必要はなくなる。1634(寛永11)年の家光の上洛を最後に、14代将軍・家茂が訪れるまで、二条城に将軍の入城はない。その間、城は落雷や地震で荒廃。再び政治の表舞台に登場するのは、外国の脅威が迫った幕末のこととなる。
元離宮二条城
住所|京都府京都市中京区二条城町541
Tel|075-841-0096
開城時間|8:45~16:00(閉城 17:00)
※9月は8:00~ 休城日|12月29日~31日
※別途二の丸御殿休殿日あり
入城料(二の丸御殿観覧料込)|一般1000円、高中生350円、小学生200円、展示収蔵館観覧料200円 ※10月1日より一般1030円に変更
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