歴史から知る!
もっと日本酒がおいしくなる小ネタ7選【前編】
日本の國酒である日本酒の歴史をひも解くと、現代につながる「え! そうだったの!?」というトリビアがたくさん。酒が美味しくなるばかりか日本史も楽しくなること間違いなし。ぜひ酒の席での小話にお役立てください。
1|「駆けつけ三杯」と神さまの知られざる関係
宴会に遅れて行くと、「はい、駆けつけ三杯ね!」と酒を回された経験があるだろうか? でも、なぜ三杯?
日本が生まれたとき、神さまは国民の命をつなぐ米を天皇に託した。天皇はそれを国民に伝える大事な役目があり、米を酒にして飲むというのは重要な儀式だった。そのいただきますの仕方が「三献」。宴会のはじまりに、盃に満たした酒を皆で回し飲みし、盃を替えて3度繰り返すことで、神さまとの契りを結ぶというもの。つまり駆けつけ三杯は三献そのものなのだ。
2|酒造りはもともと女性の役割でした
酒造りの起源をたどると、邪馬台国の「口噛み酒」に行き着く。生米を口の中で咀嚼し、甘い液体になったら壺に吐く。そこに空気中の酵母菌が付いてアルコール発酵し、できたものだ。口噛み酒を造るのは巫女の役目で、酒は神さまに仕えるためのツールであり、酒を飲んで酔った姿は神さまが乗り移ったものとされた。そもそも神さまに供する御神酒を造るのは女性だったのだ。一般家庭でも酒を造るのは家事をつかさどる女性で、敬愛の気持ちを込めて「刀自」と呼んだ。
酒造りが男仕事になるのは江戸時代、中国から大樽をつくる技術が伝わってからのこと。それまでの陶器の壺が大樽に変わると仕込みが力仕事になったからだ。酒造りのリーダーを、刀自の漢字を変えて「杜氏」と呼ぶようになる。
その後、酒蔵が女人禁制になったのは、冬だけの季節労働者である蔵人たちが女性にうつつを抜かさないようにするため。現在その風習は撤廃され、女性杜氏が造った酒が国際的な賞を取るまでになっている。
3|いまは駄目ですが……
日本は酔っ払いに優しい国だった!?
『日本書紀』の6〜7割の話に酒が登場するほど、日本人は古来、酒好きである。公卿や武家の日記にも酒に酔った話が実に多く、当時はお客が泥酔するまで飲ませるのが主人のもてなしの心得であった。酔っ払いに寛容な空気があったのだろう。戦国時代の公卿・山科言継の日記には、ときの後奈良天皇の妹宮が大いに酒に酔い、転んで左手を打撲してしまったというエピソードがある。
ちなみに、「宴もたけなわですが……」というときの「たけなわ(酣)」とは酒造りの用語で、発酵した酒が若干甘くなることを意味する。宴会で酒を飲み続け、酒が甘く感じてくれば最高潮。そこでやめておけば酒にまつわる不祥事は防げるということになる。
4|乾杯とお酌の秘密
「乾杯!」とグラスを高く掲げたり、重ね合わせたりするのは大正時代、たった100年ほど前からはじまったことだ。それまで、明治時代以降の西洋式酒席における祝杯の掛け声は「万歳」であり、それ以前は宴席に集う全員が「盃を捧げて人の健康を祝し、唱和する」という習慣も、そのために酒をつぐということもなかった。
そもそも、酒をつぐ(酌をする)行為は、主従関係の固めの儀式であった。「盃を取らせる」という言葉があるように、あくまで目上の者から目下の者へ、酒は与えられるものだった。
雛人形の段飾りで、長柄銚子、ひさげ、三方にのせた盃を携える三人官女が上段に位置するのは、いかに盃事が大事だったかを物語っている。
特に、命懸けの戦いを行う武家では、主から家臣へ酌をすることで臣従を誓わせた。そのため、目下の者から目上の者に酒をつぐというのはご法度。それは時代考証がきちんとされた大河ドラマを見ていてもよくわかる。
では、いつの時代から宴会で部下が上司に酒をつぐようになったかといえば、昭和の高度経済成長期ぐらいからではないだろうか。いわば「酌婦」の代わりを部下にさせたということだろう。
5|世界でも珍しい燗酒文化
江戸の屋台で出される酒は燗酒だった。当時の酒は精米の精度が悪いために酸が強く、温めて飲むことで酸がちょうどいいあんばいになったからだ。江戸時代に一合徳利が登場すると一気に燗酒文化が広まり、燗をつけるための道具もつくられるようになる。「錫ちろり」は、銅や銀に比べて熱伝導が悪い錫のうつわでゆっくり温めることで酒を美味しくする燗酒専用の道具。ほかに、炭の直火で温める「直火燗」や、屋外で燗酒を楽しめる「野燗炉」もある。
酒を温めて飲む文化は平安時代の上流階級にもあった。神さまから授かった米で造られる酒をお客に出すときに、ひと手間かけて温めるのがもてなしの心だったのだ。お客に冷飯を出さないのと同じ。時代が下っても、自分たちは冷酒を茶碗で飲むが、お客には酒を温めて供した。世界を見渡してみても、このように酒を温めて飲む文化はまれである。
6|徳利はいつからある?
徳利は室町時代から見られるものの、一合(約180㎖)の酒がちょうど入る一合徳利がつくられるのは江戸時代、陶芸の世界にろくろの技術が広まり、薄づくりができるようになってからのこと。薄くて小さいからお燗にも適し、庶民が気軽に燗酒を楽しめるように。猪口が登場するのもこの頃。酒が冷めないうちにひと口で飲み干せる小さなものだった。
7|居酒屋ことはじめ
現代の居酒屋のルーツは、東京・神田でいまも続く酒店「豊島屋」。1596年の創業当時、店では数種類の酒をブレンドして売っていた。酒は試飲でき、自家製の酒のあてもあり、そのどちらも原価で楽しめたため、店は大繁盛する。では、豊島屋は何でもうけていたかといえば、酒の空樽。樽は味噌や漬物づくりに重宝され飛ぶように売れたそうだ。
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監修=上杉孝久
日本酒プロデューサー。上杉子爵家(米沢新田藩)9代目当主。日本酒バーなど女性も楽しめる日本酒の店を多数手掛けてきた。現在は日本酒文化を広める講座などを行っている。著書に『いいね! 日本酒』ほか
酒器・酒道具提供=上杉みすず
コレクションし、日本酒講座や日本酒イベントに提供。いにしえからの日本酒文化を現代に発信している
text: Yukie Masumoto photo: Hiroshi Abe
Discover Japan 2024年1月号「ニッポンの酒 最前線 2024」