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ミュージアムの街
上野誕生の秘密【前編】

2022.10.8
ミュージアムの街<br>上野誕生の秘密【前編】

日本で最初の都市公園である上野恩賜公園。東京国立博物館をはじめ、日本を代表する文化施設があるが、なぜこの場所に数多くのミュージアムが集まっているのか?上野の街を研究する社会学者の五十嵐泰正さんにその理由をうかがいました。

五十嵐泰正(いがらし やすまさ)さん
筑波大学人文社会系教授。上野まちづくり協議会事務局アドバイザー。東京都・上野や千葉県・柏で、まちづくりに取り組むほか、福島県の農水産業をめぐるコミュニケーションにもかかわる

キーパーソンは天海僧正

『先哲像伝』徳齋原義正道著(国立国会図書館)

江戸の町を設計した天海僧正
1643(寛永20)年に没した天海はその来歴も謎が多く、さまざまな説がある。比叡山延暦寺で天台宗を修めたとされ、1599年に天海と改名。1607年、徳川家康から比叡山の探題執行に任ぜられ、延暦寺再興に努める。1625年、上野で東叡山寛永寺を創建。3代将軍徳川家光は天海を特に敬慕していたという

「なぜ『上野の森』と呼ばれる上野恩賜公園に多くの文化施設が集まっているのか。キーパーソンを一人挙げるのなら、それは間違いなく天海でしょう」

天海は徳川家康の側近として活躍した僧侶だ。2代将軍秀忠、3代将軍家光からも帰依を受けた天海は1625(寛永2)年、幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を創建する。

はじまりは天海僧正の
江戸の文化度向上大作戦

『東都名所 上野東叡山全図』一立斎広重(国立国会図書館)

東の比叡山「寛永寺」は江戸の鬼門を護る
東叡山寛永寺は、延暦年間に創建された比叡山延暦寺にちなみ、勅命によって当時の年号であった「寛永」が寺名となった。天海は建立にあたり、本尊を薬師如来にするなど延暦寺を徹底的に模倣した。天海の死後、第4代将軍・徳川家綱の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになり、官寺化が進んだ

1625年創建の東叡山寛永寺は、2代将軍徳川秀忠が天台宗の僧侶である天海に上野の台地を寄進したことにはじまる。山号の「東叡」は「東の比叡」を意味し、比叡山延暦寺のような天台宗の拠点を関東に築くためであった。平安京の鬼門塞ぎの役割があるとされる比叡山延暦寺と同様に、寛永寺も江戸城の鬼門の方角に位置することから“江戸の守り”とされた。徳川家ゆかりの寺として知られているが、そもそもは幕府お抱えの公の寺ではなかった。実は創建当初は、江戸庶民を楽しませるための名所をつくる、という天海の個人的な構想が強く反映され、幕府の援助に頼らず、天海が私費を投じてつくった寺だった。

上野の山は江戸の人々の
アミューズメントパーク

『東都花暦 上野清水之桜』渓斎(国立国会図書館)

京都の清水寺を上野でオマージュ!
江戸時代後期に活躍した浮世絵師・渓斎英泉が描いた清水観音堂の錦絵。清水観音堂は清水寺を意識した舞台づくりのお堂で、清水寺より迎えた恵心僧都(えしんそうず)作の千手観音像を祀っている。この絵を見ると、お堂の周囲には桜が咲き誇っており、寛永寺は桜の名所としても親しまれていたことがうかがい知れる

天海は寛永寺の建立にあたって、清水寺を清水観音堂、琵琶湖竹生島の弁財天を不忍池の弁天堂、方広寺の大仏を上野大仏に……、といった風に、当時の文化の最先端である京都周辺の名所を写したスポットを多数建立。さらに吉野の桜や紅葉も取り寄せ、境内で四季折々の美しい景色が楽しめる環境も整えていった。お伊勢参りや善光寺参りが庶民の夢であったように、信仰と行楽が一体化していた時代。寛永寺は江戸のアミューズメントパークのような場所であったのだろう。

『名所江戸百景 上野山内月のまつ』広重

映えスポット「月の松」
清水観音堂の前には円を描く松が植えられ、その円をのぞくと不忍池に浮かぶ弁天堂が見える。日本を代表する浮世絵師・歌川広重は『名所江戸百景』第89景「上野山内月のまつ」として、この光景を鮮やかに描いている

【上野の年表】
1625(寛永2)年
天海、上野の台地に「寛永寺」を創建
1868(慶應4)年
戊辰戦争の一環、上野戦争起こる。「寛永寺」の伽藍の大部分が焼失。明治政府によって境内地は没収
1872(明治5)年
兵部省、寛永寺の敷地を陸軍病院、陸軍墓地の用地として決定。これにオランダ人軍医・ボードワン博士は猛反対。政府に公園建設を働きかける
1872(明治5)年
「文部省博物館(現・東京国立博物館)」が湯島聖堂で最初の博覧会を開催
1873(明治6)年
政府が公園設定の通達を出す
1876(明治9)年
上野公園、日本初の公園として登録1877(明治10)年
国立科学博物館の前身「教育博物館」創設。「第1回内国勧業博覧会」開催
1879(明治12)年
「寛永寺」の復興が認められる
1881(明治14)年
「第2回内国勧業博覧会」開催。コンドル設計の博物館新館(旧本館)が竣工し、美術館として使用
1882(明治15)年
博物館新館(旧本館)開館。併せて日本初の動物園「上野動物園」も開園
1887(明治20)年
東京藝術大学の前身「東京美術学校」設置
1890(明治23)年
「第3回内国勧業博覧会」開催
1907(明治40)年
「東京勧業博覧会」開催
1914(大正3)年
「東京大正勧業博覧会」開催
1923(大正12)年
関東大震災。被災者、上野公園に集まる
1924(大正13)年
上野公園、宮内省から東京市に下賜され上野恩賜公園に
1926(大正15)年
日本初の公立美術館「東京府美術館(現・東京都美術館」開館
1931(昭和6)年
「東京科学博物館(現・国立科学博物館)」開館
1941(昭和16)年
太平洋戦争開戦
1945(昭和20)年
3月に東京大空襲、大勢の避難民・罹災者、上野恩賜公園に集まる。8月に太平洋戦争終戦。戦後、上野に闇市が出来上がる(現在のアメ横に発展)
1959(昭和34)年
「国立西洋美術館」開館
1961(昭和36)年
「東京文化会館」開館
1964(昭和39)年
「国立西洋美術館」開催『ミロのビーナス特別公開』に約83万人が来場
1965(昭和40)年
「東京国立博物館」開催『ツタンカーメン展』に約130万人来場
1972(昭和47)年
「上野の森美術館」開館。
「上野動物園」にパンダのランランとカンカンが、日中国交正常化を記念して中華人民共和国から贈呈
1974(昭和49)年
「東京国立博物館」開催『モナ・リザ展』に約151万人来場
1999(平成11)年
「東京藝術大学大学美術館」開館
2000(平成12)年
「国際子ども図書館」開館
2009(平成21)年
「東京国立博物館」開催『国宝 阿修羅展』に約95万人来場
2012(平成24)年
「上野の森美術館」開催『ツタンカーメン展』に約115万人来場

 

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text: Nao Ohmori photo: Kenta Yoshizawa
Discover Japan 2022年9月号「ワクワクさせるミュージアム!/完全保存版ミュージアムガイド55」

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