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大熊健郎が巡る、日本の職人仕事「民藝」
第1回/瀬戸本業窯で見た、民藝の本流

2017.8.7
大熊健郎が巡る、日本の職人仕事「民藝」<br />第1回/瀬戸本業窯で見た、民藝の本流

無名の職人による手仕事の美しさをたたえ、芸術に劣らない価値のあるものと評価した民藝。柳宗悦らが提唱した健全な美は、現代にどう継承されているのか。職人仕事の本流をいく窯元を訪れた。

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大熊健郎(おおくま・たけお)/右
「CLASKA Gallery&Shop “Do”」ディレクターとして、まだ知られていない日本のいいものを見つけ出し紹介する達人。インテリアショップ「イデー」のバイヤー&商品企画、「翼の王国」編集部を経て現職。
www.claska.com

水野雄介(みずの・ゆうすけ)/左
父である瀬戸本業窯七代水野半次郎氏に師事し作陶を開始。八代後継として仕事に励む傍ら、若い使い手に歴史ある瀬戸のうつわの魅力を伝えるべく、全国で展示会を開催。講演会なども積極的に行っている。
www.seto-hongyo.jp

民藝の精神を体現する瀬戸本業窯を訪ねて

文:大熊健郎

『白洲家の晩ごはん』という本に白洲正子家族が普段使いしていたという食器が出ている。

そこに江戸後期の石皿、麦藁手での蕎麦猪口や茶碗、馬の目皿など瀬戸の食器が数多く並んでいた。白洲家で愛用されていたそれらの食器をいまも昔と変わらないやり方でつくっている窯元が瀬戸にある。

名古屋から車で約1時間。瀬戸市街を抜けて山あいに向かいゆるやかな坂を上ると、瀬戸本業窯の看板が目に入った。趣のある古い木造の仕事場の奥には登り窯らしき建造物が見える。

古くは平安時代から陶器がつくられ、鎌倉時代には日本で最初に釉薬をかけた焼物の本格的な生産がはじまっていたという瀬戸。江戸後期に入ると磁器をつくる技術が導入され、瀬戸も次第に磁器生産が主流になる。

近代、さらに戦後になると窯業の機械化、産業化が急速に進んでいった。

時代や環境の変化にもかかわらず、瀬戸本業窯は250年近くにわたり一貫して手仕事による実用陶器をつくり続けてきた。苦難を経験しながらも「本業」(瀬戸では磁器に対し陶器を本業と呼ぶ)をこの窯が守り継承してきたのはなぜか。
その大きな理由のひとつが「民藝」との出合いだった。

民藝運動を主導し勢力的に全国の産地を回っていた柳宗悦らが瀬戸本業窯を訪れたのは6代目水野半次郎の頃。

鎌倉時代以来、瀬戸の風土とともに育まれてきた職人仕事が生んだ日用の雑器に、柳たちは「無名の美」、「用の美」を見出し、高く評価した。

効率や事業性を求めて地域の窯元の多くが転業や大規模化に向かう中、自分たちのやり方を固守してきた瀬戸本業窯にとって、民藝との出合いと評価が大きな励みとなったであろうことは想像に難くない。

陶器の焼成が登り窯からガス窯になったこと以外、ものづくりのスタイルは創業以来ほとんど変わっていないという。陶土や釉薬は専門業者から「製品」として購入するのが一般的な昨今、瀬戸本業窯では土も釉薬も自分たちでつくる。分業制という作業スタイルも昔のままだ。

ろくろを引く職人はひたすらうつわの生地をつくり、絵付けをする職人は絵付けに専念する。

驚いたのは馬の目皿と麦藁手(ともに瀬戸本業窯の代名詞的なうつわ)に至っては、馬の目だけを描く職人と麦藁手だけを描く職人がそれぞれ専任でいるという。

職人が職人に徹し、同じ作業を繰り返すことで速度が上がり、技術は熟練し、その結果として無名の美が生まれる。それはまさに柳が唱えた民藝精神を体現したものづくりの在り方そのものである。

瀬戸本業窯の仕事場に、生きている「民藝」を見る思いがした。

この登り窯は、裏山にあった14室の窯を戦後解体し、30 年間使い続けたもの。いまは使っていないが、大量の注文に手作業でこたえた当時の仕事を想像させる

現在の窯元の裏山にある洞窯跡。戦時中まで斜面に沿って巨大な登り窯があり、生活のうつわの生産を一手に担っていた

瀬戸ならではの釉薬の使い方や特徴あるかたちに感心する大熊さん

分業から生まれる、美しいうつわの数々

瀬戸は、日本ではじめて釉薬をかけた焼物が生まれた土地。六古窯と呼ばれる日本を代表する産地のなかでも唯一の施釉陶器だ。

瀬戸の釉薬のベースとなるのは、周辺の山で多くとれる赤松の灰がベースの鉄分を多く含む灰釉。古瀬戸と呼ばれる淡い黄色の焼物に使われている釉薬だ。

この灰釉に銅を加えたものを緑釉、鉄分を加えたものを飴釉、もみ殻などの藁灰を加えたものを白釉といい、うつわの用途や意匠に合わせて使い分けている。

土地に根ざした天然の灰を原料に、手作業で釉薬を調合するという昔ながらのやり方を今でも続けている窯元は、この周辺には瀬戸本業窯をおいて他にないそうだ。
一方、瀬戸には良質な土がある。

瀬戸の土は、不純物が少なく白いため、馬の目のような闊達な筆さばきやカラフルな麦藁手、三彩が良く映えるのだ。そんな洗練された模様のうつわは、全国でも特に東京や松本など都市部で評価されてきたというが、その洗練を支えてきたものこそ、職人による分業である。

釉薬や土づくり、ろくろによる成形、施釉、絵付け、それぞれの工程を専業にすることにより継承されてきた高い技術が、瀬戸本業窯らしいモダンで美しいうつわを生み出している。

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麦藁手
色違いの縦線を交互に引き、かすれた表情のある線が麦の穂を思わせる文様。「赤らく」と呼ばれる土と鉄の二色の配色が代表的

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とくさ
「麦藁手」とよく似た文様だが、こちらはコバルト色の顔料、呉須を使ったもの植物の十草に文様が似ていることから、この名で呼ばれているそう

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三彩
中国から伝わった三彩は、低温焼成で実用には向かず、装飾品に多く使われていたが、瀬戸の陶工の高い技術が絵付け皿の高温焼成を可能にし、庶民でも使えるうつわとして生まれ変わった

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黄瀬戸
瀬戸の伝統的な釉薬で灰釉(かいゆう)とも呼ばれ、黄朽葉色と称する淡い黄色を発色する。陽刻、印刻、印花など多様な彫模様を施すことにより釉薬の濃淡の美しさも楽しめる

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緑釉
深みのある緑にどんな料理も映える緑釉は、織部のもとなった釉薬として平安時代から使われていたという。瀬戸本業窯では、ベースとなる灰釉に銅を加え手づくりしている

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馬の目
読んで字のごとく、鉄絵で皿の内側に施した渦巻き模様が馬の目に似ていることからこう呼ばれる。瀬戸本業窯では、一人の職人がひたすら馬の目を描き続け、精度の高い仕事を保つ

大熊健郎水野雄介(瀬戸本業窯八代目後継)対談
次の時代につなぎたい民藝の心

柳宗悦らも見学したであろう、現存する古い窯の中へ。内壁に付着した灰釉が薪窯焼成の力強さを物語る

瀬戸本業窯は、戦後、民藝思想に出合い、どんな影響を受け何を継承したのか。柳宗悦らと交流のあった祖父から水野雄介さんが受け継いだものとは?

大熊:瀬戸本業窯には250年もの歴史があるんですよね。

水野:創業は1700年代後半、江戸時代の後期です。水野の姓を名乗っていたのは尾張藩名古屋城主の管轄だった水野代官の家系。うちの先祖は、そこから分家し、この洞(集落)にやってきて焼物をはじめました。主に庶民が使う陶器をつくったんです。

大熊:いまでも創業当時と同じものをつくっているのに驚きました。

水野:はい。瀬戸の土と釉薬を用いて、馬の目や麦藁手といった伝統の絵付けを施したうつわを、昔と変わらないやり方でつくり続けています。ただ中には、暮らしに合わなくなってきたものというのも当然ありましてね。

大熊:それはどんなものですか?

水野:たとえば、堅牢なことで知られ、暮らしの中で重宝されてきた瀬戸の石皿は、いまの時代には重過ぎるということで軽量化をしています。また、核家族化によってテーブルや食器棚が小さくなったことに合わせて、一尺以上の大皿や大鉢はつくる数が減りました。

大熊:そういった時代の移り変わりの中で、ご苦労もいろいろあったんでしょうね。

水野:そうですね。バブルの絶頂期というのは、先生と呼ばれるような陶芸家の鑑賞陶器や高級な磁器が主流になって、私たちのような健全な職人仕事というのはなかなか見てもらえなくなりました。

そんな中、祖父も父も歯を食いしばって、本業窯のあるべきスタイルを貫いたんです。そういうときに支えになったのが、柳宗悦さんたちが提唱した民藝思想だったと思いますね。

大熊:民藝運動の人々は本業窯を訪れ、高く評価したそうですね。

水野:6代目水野半次郎、つまり私の祖父の代に、柳宗悦さんや濱田庄司さん、バーナード・リーチさんが揃ってこちらにいらして、とてもいいと言ってくれたんです。とはいえ、うちは民藝運動の起きた100年以上も前から焼物をつくっている窯元です。

彼らの評価にすがる必要はないというか、それがなかったとしても続けていく誇りはもっていました。それでも祖父は、柳さんたちとの交流をとても大事にしていて、何度も酒を酌み交わしました。

その後、バブル期に我慢の時代がやってきた時、彼らに評価されたという事実は、続けていくための大きな支えになったと聞いています。それは僕自身にも言えることです。

大熊:水野さんにとっての民藝思想とは?

水野:僕は、民藝運動や思想を勉強すればするほど、祖父や父がやってきたスタイルを継承することの価値に気づくことができました。

日本のものづくりの健全さ、華美ではないけれど生活に根ざしたものづくり。家業としてこれまでやってきたことが正しいと、心から思えたんです。

大熊:職人仕事というのは生業であって、商売として成立しないと継続はあり得ません。継承することは、簡単ではないですよね。

水野:瀬戸の焼物だと胸を張って言えるものが減ってきているのは事実です。だからこそ、僕には継承していく責任がある。
瀬戸の風土、風習に根ざした焼物をつくっているということに誇りをもち、それを貫いていくこと。職人たちとともに、日々つくり続けることで、それを体現していきたいと思っています。

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瀬戸本業窯
住所:愛知県瀬戸市東町1-6
Tel:0561-84-7123
www.seto-hongyo.jp

【information】
民藝のうつわが一堂に会する特別企画展がはじまります。見て、触れて、お気に入りの民藝を持ち帰ってください。

いまの暮らしに、健やかな美を。民藝展」
会期|2020年8月26日(水)~ 9月6日(日)
会場|日本橋髙島屋S.C. 本館8階催会場
住所|東京都中央区日本橋2-4-1
営業時間|10:30~19:30(最終日は18時閉場)
Tel|03-3211-4111
※後に巡回 大阪髙島屋 9月9日(水)~14日(月)

文=大熊健郎、衣奈彩子 写真=山平敦史


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大熊健郎がめぐる、芸術に高まった日本の職人仕事「民藝」
1|瀬戸本業窯で見た、民藝の本流
2|浄法寺塗・浅野奈生さんの工房で見た、日用品としての漆器
3|銀座たくみで知る、民藝の愉しみ

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