もっと知りたい豊臣兄弟
|気になる疑問と歴史の裏側
これまで秀吉が主役になることはあったが、2026年はその弟・秀長が脚光を浴び、大河ドラマで主役を務めている。今回、歴史著述家である上永哲矢さん監修のもと、下層身分から天下人へと上り詰めた兄弟たちについて気になる疑問を深掘りする。
上永哲矢(うえなが てつや)
歴史著述家/紀行作家。各種雑誌やウェブサイトに歴史コラムを寄稿。著書に『戦国武将を癒やした温泉』(イカロス出版/山と溪谷社)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)など。
01|豊臣兄弟の父親は誰?
秀吉と秀長は同じ母親(大政所)から生まれたことは確かで、兄弟は晩年まで母を大切にしていたことが史料からうかがえる。ただ父親に関しては、ほとんどわかっていない。秀吉の父は木下弥右衛門、秀長は竹阿弥と、いわゆる「種違い」だったという説。または二人とも同じ父親(弥右衛門)だったという説がある。秀吉・秀長の幼少期に亡くなっていたためか、不仲だったのか、秀吉が父について詳しく語ったり、墓を建てて顕彰したりした形跡はない。「あやしの民の子」(『豊鑑』)、「山で薪を刈り、売って生計を立てた」(フロイス『日本史』)と史料に書かれるなど、秀吉らは裕福な家の出ではなかったのは確かなようだ。
02|秀長の「デビュー」はいつから?
本文に述べた秀長の書状の内容は地元の土豪たちに給金を支払い、その土豪たちを年貢をとりまとめる役目に任じるというもの。兄の補佐役というよりは、すでに長浜の領主の一人として働きはじめていた様子がうかがえる。そして、その前年(1574年)には、織田信長直属の将として従って伊勢長島(現在の三重県)で起こった一向一揆勢との戦いに出陣している。そのとき、兄・秀吉は越前の一向一揆との戦いに出ていて、兄弟は別々に行動していたらしい。これらは史料から確実に現れる、秀長の最初期の活躍の跡だ。
03|兄弟仲はよかったのか?
秀吉と秀長が直接やりとりした書状はあまり残っていない。ただ、四国攻めの際、現地の秀長に対して秀吉が加勢しようとするのを秀長が制したり、小田原攻めの陣中から秀吉が秀長に戦況を逐一知らせたりと、やはり密接だった関係性がうかがえる。病床で寝込む秀長を、秀吉が幾度か見舞っていたこともわかっている。兄弟なら当然とも思えるが、戦国時代には織田信長や武田信玄のように兄弟や親子で殺し合うこともあった。「お前を小一郎のように心安く思っている」と、秀吉が黒田孝高への書状に書いた思いに偽りはなかったと思える。
04|豊臣秀長と女性たち
秀吉は正室ねね、側室の茶々(淀殿・信長の姪)ら、多くの女性をそばに置いたことで知られる。秀長はどうか。ともに大和へ入国し、大政所(秀吉・秀長の母)とともに春日大社参拝に行った女性が「濃洲女中」、「宰相殿女中」として史書に出てくる。彼女は晩年、その戒名である慈雲院(または智雲院)の名で史料に記され、京都の大光院に墓所があり、高野山にも夫妻の供養塔がある。もう一人、秀長には光秀尼という側室がおり、興福院に墓がある。子は慈雲院が嫡男の与一郎を、光秀尼が娘のきく(大善院)を産んだとされるが、どちらも若くして亡くなった。
05|秀吉は東北まで行ったのか?
小田原攻めを終えた秀吉は下野(現在の栃木県)宇都宮城に入り、奥州(東北)や関東付近の大名たちに対する「仕置」を行った。佐竹義重には常陸ほか54万石の所領を安堵するなど小田原攻めに加勢した者は加増し、葛西氏など小田原に参陣しなかった領主は改易とされ「惣無事令」を無視した伊達政宗らは減封処分とした。秀吉は政宗の案内で「奥州仕置軍」を伴って巡察行軍に出たが東北までは行かず、宇都宮へ引き返した。代わりに蒲生氏郷や浅野長政ら奥州仕置軍が東北の平泉(岩手県)まで進軍した。こうして秀吉の天下統一が成ったのである。
06|秀吉が京に築いた聚楽第と伏見城
晩年の秀吉は朝廷・公家とのつながりを重視していたため、大坂城より京に滞在することが多かった。晴れて朝廷の最高官職・関白と太政大臣に上った秀吉は、九州平定後の1587(天正15)年、平安京大内裏の跡地に本邸「聚楽第」を構えた。聚楽第は南北約700m、東西約400mの敷地を誇り、天守閣・櫓・石垣秀吉が京に築いた聚楽第と伏見城、私邸でありながら城郭のような建物だった。翌年には後陽成天皇の行幸が行われ、諸大名、公家を総動員しての盛大なパレードが催された。
そして、関白の位と聚楽第を養子の豊臣秀次に譲った際、新たに自身の拠点としたのが同じく京に築いた伏見城だ。朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592(文禄元)年に築城を開始し、その2年後に秀吉が移り住んだ。翌年に息子の秀頼が誕生すると、秀吉は大坂城を我が子に与え、伏見城を本城とした。一度は地震で倒壊した後、再建されたが、1598(慶長3)年、秀吉はこの城で没した。享年62。
聚楽第は秀吉の存命中に取り壊され、伏見城も2年後の「関ヶ原の戦い」の前哨戦において攻撃の対象となり、焼失した。
07|もし秀長が長生きしていたら……
7年も続いた異国の地での戦役は1598(慶長3)年、秀吉の死でようやく終わりを告げた。
この朝鮮出兵の直前、秀長は51歳で死去していた。同年に茶人・千利休が切腹、さらに1595(文禄4)年には高野山に謹慎していた豊臣秀次が自害。もし秀長がいたら、秀吉の暴走とされる、それらを止められただろうか。秀吉は1586(天正14)年の四国攻めの頃、こんなことを言っていた。「領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わないし、何ものも欲しくない。日本国を弟(秀長)に譲り、わしは朝鮮と明(中国)を征服することに専心したい」(ルイス・フロイス『日本史』より)。当時の秀吉の勢いは日の出のごとくで、秀長も止めることはできなかったかもしれない。
しかし、仮に秀長があと10年長生きしていたとしたら1601(慶長6)年。「関ヶ原の戦い」の翌年まで存命していた計算になる。史実の「関ヶ原」は秀吉が没し、豊臣政権に内紛が起こって発生した合戦だが、そこに秀長がいれば、この戦いは起こらなかったかもしれない。そうなれば、日本の歴史は大きく変わった可能性があるだろう。
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text: Tetsuya Uenaga
2026年4月号「地域の“旬”感へ」































