「五街道の起点・ 日本橋を歩く」
俳優・藤間爽子と道歩きの達人・岡本哲志
前編|日本橋の土地の歴史を読み解く
江戸時代から現代まで交通の要衝であり、伝統と革新が共存する日本橋。なぜ、日本橋の真ん中が日本の道路の原点なのか?日本舞踊家として伝統を継承する藤間爽子さんがその文化と歴史を“道”で体感する旅へ──。今回は、道のスペシャリストである岡本哲志さんに案内をしてもらった。
藤間爽子(ふじま さわこ)
俳優・日本舞踊家。幼少より祖母・初世家元藤間紫に師事し、2021年に3代目藤間紫を襲名。舞台や映像作品で活躍。「阿佐ヶ谷スパイダース」に所属し、舞台や映画、ドラマなど多彩な作品に出演し活躍の場を広げている。
岡本哲志(おかもと さとし)
都市形成史家・博士(工学)。法政大学デザイン工学部建築学科教授を経て、岡本哲志都市建築研究所主宰。2012年度都市住宅学会賞受賞(共同)。国内外の都市と水辺空間の調査・研究に長年にわたって携わる。
視点を変えれば、
日本橋の成り立ちが見えてくる。

東京・日本橋は、徳川家康が江戸幕府を開いた際に、江戸と各地を結ぶ東海道・中山道・甲州街道・奥州街道、日光街道の「五街道」の起点として定められた要衝だ。商人や各地から訪れる旅人で賑わい、整備された水路では物資が行き交い、川沿いには魚河岸が形成されるなど経済や商業、食文化の中心地として重要な役割を果たしてきた。また、芝居小屋が建ち並び、歌舞伎や落語といった芸能文化が花開いた地でもある。
そういった伝統を守り続けながら時代に合わせた革新を取り入れ、独自の進化を遂げている日本橋を、街歩きのスペシャリストである都市形成史家・岡本哲志さんにご案内いただいた。今回の旅人は、俳優の藤間爽子さん。映画や舞台、ドラマなど多彩な場で活躍しながら、日本舞踊家として紫派藤間流の3代目家元も務め、伝統文化の継承に尽力されている。
「日本橋には、いまも格式を感じる東京の中心地というイメージをもっています。“道”といった視点でめぐるのははじめてなので楽しみです」と藤間さん。

まず訪れたのは、開府と同年の1603年に架けられたと伝わる日本橋。かつては木造の太鼓橋であり、現在の石造二連アーチ橋は1911年に竣工された19代目だ。その中央には日本の道の起点を示す「道路元標」が埋め込まれている。この橋が架かる日本橋川は、隅田川から当時の江戸城を結ぶ水路として開削された際、家康が意図的に曲げたと岡本さんが教えてくれた。
「隅田川からいまの永代橋の手前で、筑波山を前方に眺めさせ、江戸橋を過ぎたあたりで雄大な富士山が姿を現す。そこから進み、日本橋の下で『く』の字に曲がった正面に登場するのが江戸城の天守。つまり家康は、天下人としての力を誇示するために富士山が江戸城を引き立てる景観を水路で演出しました。そういった最重要の場所だったので、日本橋が五街道の起点となったのです」

船乗りたちは、「く」の字に曲がった日本橋の下を通過する際、富士山を脇役に従えた主役の江戸城の慶長度天守を望んだ。その組み合わせが江戸を象徴する絶景ポイントになった
©『武州豊嶋郡江戸〔庄〕図』/国立国会図書館デジタルコレクション
そして日本橋由来記の碑の脇にある階段を下り、橋を外側から眺めてみると、水辺に近い橋台の石の一部が黒く煤けている。これは関東大震災で燃えた船がぶつかった際に焼けた痕で、100周年記念で補修した際もびくともしなかったと岡本さん。その逸話に藤間さんが目を輝かせ、感慨を込めて話す。
「教科書や本ではなく現地で目の当たりにすると、知らなかった物語に想いを馳せることができるので、すごく興味深いです。再開発が進められる一方で、歴史的な遺構も共存しているところが素晴らしいと思いますし、残していってほしいです」
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食、芸術、芸能文化が
花開いた街道
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text: Ryosuke Fujitani photo: Maiko Fukui stylist: Takumi Nosiro hair & make-up: Shiho Sakamoto
2025年8月号「道をめぐる冒険。」



































