奈良で考える豊かな暮らしの本質。
暮らしをつくるつながりをデザインする
|はじまりのムラ CotoCoto 第2回
Discover Japanの奈良支部に認定されたコミュニティ「はじまりのムラCotoCoto」。ここでいう「ムラ」というのは仮想の「ムラ」で、このコミュニティには奈良県を中心に、全国各地、海外に活躍している人もいます。そんな「ムラ」では月1回、奈良を舞台に勉強会を開き、さまざまな人が考える奈良と、その奈良の未来についてお話する場があります。この連載ではその活動を紹介していきます。
末光大毅(すえみつ だいき)
経済再生担当大臣秘書官。奈良県副知事(2020年4月~2021年7月)。1976年、広島県出身。東京大学法学部卒。1999年、旧大蔵省入省。在インド日本国大使館一等書記官、財務省主計局主計官補佐、財務省大臣官房総合政策課企画室長などを歴任し、2018年より総務部長として奈良県に出向。考古学や歴史を愛好。「はじまりのムラCotoCoto」メンバーでもある。※講演時は奈良県副知事
つながり
―誰かと何かを共有しながら、「私」ができている
今日は「奈良」、「暮らし」、「つながり」をキーワードにお話ししてみたいと思います。
私は日頃から「暮らしの豊かさ」に関心があります。それは、日本は「失われた30年」とも言われる低成長時代を経験した一方で、生活は以前よりも確実に便利になったという実感もあるからです。
バブル崩壊以降の社会の変化、とくに日々の生活に直結するものについて振り返ってみると、携帯電話などのガジェットの進歩やSNSの普及、さまざまなコンテンツの充実が格段に進んでいることに気付きます。これらの変化が暮らしに与えた影響をあらためて考えると、「ちょうどよいつながりの中で、ちょうどよい過ごし方を、ちょうどよく楽しむ」ことができるようになったと集約できないでしょうか。さらに一歩踏み込んで、「お金」の使い方だけではなく「時間」の使い方が「暮らしの豊かさ」においてますます大きな意味をもつようになった、とも言えるように思います。
ここで今日のキーワードでもある「つながり」について、少し深堀りしてみます。人は物理的に離れていても、街道や河川、鉄道を利用して移動したり、手紙や電話、SNSで連絡を取り合ったりして、伝えたいことを共有し、つながります。端的に言えば、「つながり」とは人と人が交通・通信手段によって何かを共有していることと抽象化できるでしょう。そして、交通・通信の手段が変化すれば、共有を介してつながる人間関係も変わっていくと考えられます。
日常的なコミュニケーションについては「ダンバー数」という概念が知られています。これは「知り合いで円滑に安定して社会的接触を保っている関係の人の上限数」を意味するもので、古今東西を問わず、ある程度共通しているそうです。そのようなコミュニケーション量の制約が、どういうわけか人類に備わっているのだとすると、日常的につながりをもつ人付き合いの範囲は、それぞれの時代や地域で普及している交通や通信のあり方次第で大きく変わると言えそうです。このことは、歩き中心の時代のムラ社会や、自動車・電車通勤が多く見られる現代の職場関係などを具体的に想像すれば、なんとなく理解できるのではないかと思います。
近年では、先ほど見たように、情報通信技術の発展などによって「つながり方」が大きく変容しています。それに伴い、ダンバー数の範囲でしばしばつながる人間関係についても、各個人の志向をより反映するように変化してきている可能性があります。こうしたことが、「ちょうどよいつながりの中で、ちょうどよい過ごし方を、ちょうどよく楽しむ」ようになってきた背景にあるのではないか、と考えています。
そもそも、つながることの意味は何なのでしょう。私自身について考えてみると、「私」という存在自体が、さまざまなつながりの中でできているとの感覚が湧いてきます。交通や通信でつながる友人・知人はもちろんのこと、さらには文字や造形を通じて昔の人たち、たとえば古典文学の作者などともつながって、さまざまな影響を受けることによって「私」ができていると感じます。もっと情緒的に言い換えれば、時間と空間を越えてつながりながら生きて「私」ができている、と思います。
このように「つながり」がもつ大きな意義に思いを巡らせると、「つながり方」の変化や、それが私たちの暮らしに与える影響について考えることの大切さをあらためて認識させられます。
いま日本で暮らす私たちには、「生き方」、「暮らし方」を問える豊かさがあります。そのような環境の中で、「よく生きる」ためにも、「暮らしをつくるつながり」をどのようにデザインするかは、とても大切なテーマだと思います。
奈良は、時を超えて暮らしや考え方が
再構築できる創造的な場所
奈良でまず感じるのは、空が広く、光がきれいだということです。この風景は古代からそれほど変わっていないでしょうから、いまの奈良に住むということは、昔の人と空を共有することを意味すると思います。しばしば、奈良は「本」のようだとも感じることがあります。「風景」がページの「質感」で、「歴史や文化」が本に書かれた「物語」にあたるイメージです。
そのような物語を読み進めるように、私は奈良のあちこちを歩くことが好きです。そこで強く感じることは、奈良では、古墳や神社仏閣はもちろんのこと、古代の人々が行き交った道、中世に生まれた街並みや環濠集落、江戸時代につくられた橋や屋敷など、さまざまな時代の「エネルギーの塊」が、開けた空間に豊富に点在しているということです。このような奈良の地は、ぜひとも点ではなく面で語りたい場所だと思います。
こうした奈良の「いまにとらわれない奥行き」は、建築などの構造物にとどまらず、風習や伝統芸能にもたくさん見られます。このように有形無形を問わず、「まちのアップデート」がまだらに起こっているのが奈良の特徴だと思います。大都市ではすでに一掃されて失われたかつての人々の息遣いが、色々な形で私たちの目の前にリアルに残っています。この地に生きた人々の千年以上にわたる暮らしのカケラが重層的に生々しく残っているのが、ほかにない奈良の魅力だと思います。
この魅力の意味するところをさらに探ってみます。普通、過去を研究するときは、まず文献史料や出土遺物などの資料によるのが基本です。しかし、そのほかにも地勢や言葉をはじめ、時間を貫き通す痕跡はたくさんあり、過去を類推するヒントを与えてくれます。奈良に「暮らしのカケラが重層的に生々しく残っている」ということは、そうしたさまざまなカケラを通じて、過去の人々の暮らしや考え方を豊かに再構築することが、奈良では可能だということと思います。
このように奈良には、さまざまなカケラから過去を再構築できる魅力がありますが、ただ過去にとらわれるだけではもったいないと思います。さまざまな過去の「暮らし」の物語が、面的な広がりをもって縦横無尽に存在するということは、実は現代社会にとらわれない自由な発想の余地も大きいことを意味するのではないでしょうか。いまの私たちの生活を相対化して見つめ直すことができること、それは「暮らし」に関する奈良の懐の深さとも言えると思います。
多様な「暮らし」から、その底にある暮らしの「本質」を探究できるなら、これほど創造的な場所はありません。現代社会にとらわれない自由の中で、「豊かな暮らし」を本質から考えられることは、奈良の大きな魅力だと思います。前半で「暮らし」のキーワードとしてお話しした「つながり」と合わせて言うならば、「暮らしをつくるつながり」をデザインするための最適地が、この奈良ではないかと考えています。
奈良の空と大地に抱かれながら、「はじまりのムラCotoCoto」の皆さんとのつながりの中で、ともに「これから」を創ることができたらうれしいです。
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planning cooperation: Masayuki Miura text: Yoshino Kokubo photo: Yuta Togo