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「出西窯の土瓶」で茶の間の懐かしさを。
ただいま、ニッポンのうつわ

2020.10.21
「出西窯の土瓶」で茶の間の懐かしさを。<br><small>ただいま、ニッポンのうつわ</small>

自分の料理や暮らしに合ううつわを求め続けて、高橋みどりが最近気になっているのが、ニッポンのうつわ。背景を知ると、使うのがもっと楽しくなることを伝えたい。今回は、どこか「茶の間」の懐かしさ感じる、島根県 出雲市の「出西窯の土瓶」を紹介します。

高橋みどり
スタイリスト。1957年、群馬県生まれ、東京育ち。女子美術大学短期大学部で陶芸を学ぶ。その後テキスタイルを学び、大橋歩事務所、ケータリング活動を経てフリーに。数多くの料理本に携わる。近著に『ありがとう!料理上手のともだちレシピ(』マガジンハウス)など

出西窯
1947年、地元の青年5人が共同で設立。柳宗悦はじめ河井寬次郎、濱田庄司ら民藝運動の提唱者に薫陶を受け、益子など各地の技を学び、地元の土を使った日常の陶器を焼く。現在、十数名の陶工が働く

出西窯の土瓶 W:180×D70×H158㎜

高橋さんの子ども時代、実家で普段のお茶といえばほうじ茶。お客用の煎茶は、ゆっくり冷ました湯で丁寧に。家族の食後のほうじ茶は、熱い湯でたっぷりと。そんな風に母から教わり、以来ほうじ茶はずっと、一番親しい日常のお茶だったという。

お茶とのつき合い方が少し変化したのは、数年前に煎茶の美味しい淹れ方を習う機会を得てからのこと。ほっとひと息つきたい午後の時間や、静かな一日の終わりには、ゆっくり煎茶を。食事のときは、ほうじ茶をたっぷり。それぞれのお茶を楽しむ時間がはっきりと分かれて、そうなると道具もおのずとふさわしく変化した。煎茶には常滑の小ぶりの急須。大きめの土ものの急須で淹れていたほうじ茶は、さてどうしよう、と探して行き着いたのが、この丸紋土瓶だ。ゆったりと愛嬌があり、見るからに美味しいお茶が入りそうだ。

昭和30年代、古作に学んで職人が試行錯誤し、出西らしい姿に、と世に問うた丸紋土瓶。半世紀の間にかたちも少しずつ変化し、道具としてよりよいものになるよう、注ぎ口や茶こしの穴にも工夫を重ねてきた。20代から土瓶をつくり続けた職人が昨年引退し、いまは若手が跡を継ぐべく研鑽中。そう聞けば、縁を感じていっそう感慨がわく。

縁が縁を呼ぶように、偶然骨董市で出合ったのが、好ましく似合いのカップだ。フィンランドのアラビア社の工房ラインで、色調もおおらかな線描も、まさに土瓶にぴったり。健やかな手の仕事が、洋の東西を越えて響き合う。

日本の湯飲みのようなかたちのカップは、アラビア社の工房作で、アンヤ&ペテル・ウィンクヴィスト夫妻のデザイン。モダンでいて、どこか「茶の間」の懐かしさがあるお茶のしつらい。

出西窯の土瓶の豆知識

赤泥釉
丸紋土瓶の地となる赤泥釉は窯の裏山の山頂付近で採れる赤土を使ったもの。試作を繰り返した結果、この上に黒釉で丸紋を描くと、意匠的効果のみならず黒釉が流れ過ぎず歩留りもよいとわかり、使い続けている。

土瓶のつる
つるは籐やあけび、竹などでつくり、本体に見合うバランスや完成度、握りやすさなど、土瓶の重要なポイントになる。消耗品で交換が利くが、国内ではつくり手の高齢化、廃業が進み、後継者育成が緊急課題である。

出西窯と柳宗理
プロダクトデザイナー・柳宗理のデザイン・指導によるシリーズには、黒土瓶をはじめ皿、飯碗などが揃う。柳の最初の訪問は1962年、出西窯と縁が深く、その黒釉を好んだ父、宗悦の骨壺をつくるためであった。

出西窯
Tel|0853-72-0239

text : Akiko Nariai photo : Yuichi Noguchi
2017年10月号 特集「京都の誘惑。」


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