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京都《大覚寺》
華やかな見どころや歴史に触れる
“華と心経”の門跡寺院|中編

2024.12.2
京都《大覚寺》<br>華やかな見どころや歴史に触れる<br><small> “華と心経”の門跡寺院|中編</small>

前編に引き続き、平安時代初期、嵯峨天皇が造営した離宮にはじまり、御所風の伽藍が建つ境内には雅な雰囲気が漂っている「大覚寺」。

緑豊かな山並みが連なる大沢池の畔からの眺めは、花や月を愛でた天皇が目にした景色ときっと変わらない。中編では大覚寺の歴史や華やかな障壁画などの見どころをご案内。

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夜を照らす伝統行事や華やかな障壁画

嵯峨天皇が大沢池の菊ヶ島に咲いていた菊を手折って飾り、「花を生ける者はこれを手本とするように」と言ったことから、いけばな嵯峨御流が生まれた

鎌倉時代に後嵯峨・亀山・後宇多と3代の天皇が続いて大覚寺の門跡となった。中でも寺内を整え、大伽藍を築いたのが中興の祖と謳われる後宇多法皇だ。

大覚寺が嵯峨御所と呼ばれるのは、平安時代の嵯峨院に加え、後宇多法皇が仙洞御所を造営し、院政を行ったことにも理由がある。

「当時、後嵯峨天皇が後継者を定めなかったことで、天皇家がふたつに分かれていました。このときの皇系のうち後宇多法皇側は大覚寺統と呼ばれますが、これは法皇が大覚寺門跡であったことに由来します」と岡村執行。

岡村光真執行。鷹の間は正寝殿の一室で、毎朝のお勤めはここから諸堂をめぐる。狩野山楽による水墨画の襖絵と貼付絵(模写)に描かれるのは、力強い松の巨木と鷹

その後の南北朝合一の会議も大覚寺で行われたとされる。こうした日本の歴史の転換期に名を残すのも、名刹たるゆえんだ。

残念ながら法皇が築いた大伽藍は南北朝の動乱の中、足利尊氏の軍によりわずか15年で灰燼に帰した。大覚寺はその後も焼失・再建を繰り返し、現在の伽藍の多くは、安土桃山~江戸時代にかけて移築や再建で整えられたものである。

宸殿で一番格式の高い牡丹の間は、折上小組格天井で欄間の細工も美しい。18面の艶やかな『牡丹図』は、狩野山楽による襖絵を昭和に模写。春の華道祭の会場にもなる

伽藍の中でまず目を引くのが、門跡寺院特有の宸殿(しんでん)だろう。現在の建物は江戸初期に後水尾天皇に入内した徳川2代将軍秀忠の娘・和子の女御御殿を移築したもの。

檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に蔀戸(しとみど)の寝殿造で、古の御所に倣い正面には右近の橘と左近の梅が植えられており、綿々と受け継がれてきた平安宮廷の面影を残す。室内は京狩野派の祖・狩野山楽が描いた牡丹や紅白梅の襖絵(複製)が華やかだ。

心経前殿と宸殿などをつなぐ村雨の廊下。縦の柱が雨、折れ曲がったかたちが雷に見えることからこの名がついた。刀を振り上げられないよう天井は低い

諸堂は村雨の廊下をはじめとする屋根付きの回廊で結ばれ、鶯張りの床音もどこか雅に響く。嵯峨天皇を含め、6人の天皇の書写による般若心経を収めた勅封心経殿と心経前殿(御影堂)にも注目。

心経前殿は、大正天皇の即位式で用いられた饗宴殿を移築したもので、内陣には嵯峨天皇や弘法大師の尊像が祀られている。心経殿とは五色の布でつながっており、なで五鈷杵(ごこしょ)に触れたり摩尼車を回すことでその功徳を受けられるという。

嵯峨菊は嵯峨天皇の時代、大沢池に自生していた野菊が元で、育て方や仕立て方は門外不出。高貴な天皇は上を見上げられなかったことから、目線を落として鑑賞する

本堂は、大沢池の畔に佇む五大堂。密教特有の仏である明王のうち、中心となる五体の明王、不動明王・降三世(ごうざんぜ)明王・軍荼利(ぐんだり)明王・大威徳(だいいとく)明王・金剛夜叉明王を祀る。嵯峨院時代、空海により持仏堂として建てられた五覚院に由来する。

大覚寺はいけばな嵯峨御流華道総司所でもある。毎年11月に開かれる嵯峨菊展で、境内を彩るのは色とりどりの古典菊。糸のような花びらが特徴で、下から7・5・3の花数に仕立てられる。池の周りの紅葉も秋めいてくる、この時季に訪れてみるのもいい。

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【後編】
60年に一度の般若心経とは?

 
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text: Rio Fujimoto photo: Mariko Taya
Discover Japan 2024年11月号「京都」

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