京都《大覚寺》
嵯峨天皇が愛した景色に出会う
“華と心経”の門跡寺院|前編
平安時代初期、嵯峨天皇が造営した離宮にはじまり、御所風の伽藍が建つ境内には雅な雰囲気が漂っている。
緑豊かな山並みが連なる大沢池の畔からの眺めは、花や月を愛でた天皇が目にした景色ときっと変わらない。
嵯峨天皇が愛した水景と
空海との関係
京都市街の西方に位置し、古来、風光明媚な景勝地として人々を魅了してきた嵯峨野。平安時代の貴族も遊猟や舟遊び、紅葉狩りなどに訪れ、和歌を残している。
観光客で賑わう渡月橋界隈から少し離れた住宅地の奥に、静かに佇むのが「大覚寺」だ。正式名は旧嵯峨御所大本山大覚寺。
真言宗大覚寺派の大本山で、平安時代初期に造営された嵯峨天皇の離宮をルーツに持つ。嵯峨天皇の孫・恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどう)を開山とし、明治初期までは代々法皇や皇統が門跡(住職)を務めた。離宮時代を含めると1200年以上の歴史を紡いできた格式高い門跡寺院である。
「嵯峨天皇は、とてもおしゃれな方だったんですよ」と語ってくれたのは、大覚寺の岡村光真執行。「大沢池に色鮮やかな龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべて、水面に映った月を楽しまれました。
また漢詩集『凌雲集』や『文華秀麗集』の編纂を命じられ、ご自身も詩をたくさん詠まれています」。
中国の文化・芸術を好んだとされ、大覚寺で宗祖と仰がれる弘法大師空海との縁も深い。遣唐使として中国へ渡った空海は、20年と定められていた期間を2年に短縮して帰国したことをとがめられ、九州で蟄居させられていた。
即位後すぐに、それを許して京へ招いたのが嵯峨天皇である。「弘法大師は中国から持ち帰った書物をはじめとするさまざまな文物を献上しました。嵯峨天皇はとても興味をもたれて、そこからお二人の交流がはじまったようです」。
嵯峨天皇が即位したのは、平安京遷都から15年後。都はまだまだ整備が必要だった。そんな中、空海を通じて、当時最先端ともいえる中国の行政や土木技術、芸術を吸収し、京の都に取り入れたのが嵯峨天皇だった。
大覚寺の大沢池は日本で最古の人工林泉といわれる。嵯峨天皇が檀林皇后(橘嘉智子)との新居として離宮である嵯峨院をつくった際、中国の洞庭湖をモデルに整えたとされ、天皇はここで詩歌管弦の宴を催した。
平安時代の貴族の邸宅には寝殿の前に広がる池がつきものだが、その原型と言えよう。天皇は親王時代から遊猟で嵯峨野を訪れており、後に嵯峨院となる山荘を築いていた。譲位後は檀林皇后とともに嵯峨院へ移り住み、晩年の約10年を過ごした。
その陵(みささぎ)は大沢池の畔からも望める山の上にあり、そこからの眺めも見事。朝原山や小倉山などのなだらかな山並みを借景に、水をたたえる大沢池と広々とした空。この美しい景色は、平安時代に嵯峨天皇がこよなく愛した嵯峨院をいまもほうふつとさせる。
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華やかな見どころや歴史に触れる
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text: Rio Fujimoto photo: Mariko Taya
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