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首里城の歴史について知る
|首里城正殿、復興のいま

2026.5.20
首里城の歴史について知る<br>|首里城正殿、復興のいま

2026年秋の正殿完成に向けて、着々と復元工事が進む「首里城」。琉球文化の保存や継承とともに、伝統技術を次世代に受け継ぐ機会にもなっている。首里城正殿の復元が進むいま、改めて歴史を追う。

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Q1 首里城はどんな歴史をたどってきたの?

1429年 琉球王国の成立
1453年 「志魯・布里の乱」で首里城全焼
1609年 薩摩による琉球侵入
1660年 首里城焼失
1672年 首里城再建
1682年 龍頭棟飾を正殿の屋根に設置
1709年 首里城焼失
1712年 首里城再建、1715年に完了
1768年 正殿の大修理
1853年 ペリー提督来琉。首里城を訪問
1872年 琉球藩の設置
1879年 琉球王国が崩壊し、沖縄県に。
首里城が日本軍の駐屯地になる
1925年 正殿が国宝に指定される
1945年 沖縄戦により首里城焼失
1950年 首里城跡地が琉球大学キャンパスに
1972年 日本本土復帰
1989年 正殿、「平成の復元」工事に着手
1992年 正殿、復元完了
2000年 首里城跡などが世界遺産に登録される
2019年 正殿など焼失
2022年 正殿、「令和の復元」工事に着手
2025年 正殿外観の完成
2026年 秋、正殿復元工事完了予定

A 5度の焼失、駐屯地や学校になったことも
正殿は5度の焼失を乗り越えてきた。第二次世界大戦中には、日本軍が米軍の沖縄侵攻に備えるために地下に壕群を設置。1945年に沖縄戦がはじまると攻撃目標となり、首里のほぼすべての建物が焼失。跡地に琉球大学が建てられたが、その後、首里城が復元された。

Q2 首里城はなんのための建造物?

「東のアザナ」から見た首里城正殿。迷路のような曲線の城壁で囲まれ、その中に多くの施設や門が建てられていたことがわかる

A 琉球国王の住まいで行政・信仰の中心だった
首里城は大きく3つのエリアで構成される。正殿より西側の範囲に儀式に関する施設が建つ①政治・行政空間、信仰上の聖域が集まる②祭祀空間、王族に仕える女官が暮らす「御内原」がある③生活・儀礼空間。正殿は国王自ら儀式や政治を行う中心的な建物だ。

Q3 首里城で生まれた文化は?

A 料理、芸能、工芸……
外国の使者をもてなす文化が発展
中国との冊封体制、薩摩藩による統治体制、ペリー提督の来琉など、多様な文化をもつ賓客を受け入れてきた琉球王国では、外交政策としてのもてなし文化が発展。国王主催の宴「七宴」で提供される琉球料理、組踊や琉球舞踊に代表される芸能、染織物などの工芸品が生まれた。

Q4 首里城正殿ってどんな建築物?

©内閣府沖縄総合事務局 国営沖縄記念公園事務所

A 中国と日本から影響を受けた独自の様式をもつ
〈Point〉屋根の構造と末広がりの石階段
唐玻豊の後ろの三角屋根は、琉球王国独自の構造。日本では屋根の後ろまで弓なりのカーブを描く。屋根の曲線は高度な技術と手間がかかるため、正面から見えないところは直線で仕上げたといわれる。末広がりの石階段も唯一無二の意匠。さらにその両脇の「大龍柱」は龍が自らの胴体に尻尾を巻きつけて直立していて、この姿も琉球ならではだ。

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日本→社寺建築を思わせる唐玻豊
唐玻豊とは、屋根の頭部に丸みをつけ、両側にかけてゆるやかに低くするつくりのことで、主に日本の社寺建築で見られる(沖縄以外では「唐破風」と書くのが一般的)。唐玻豊をもつ宮殿は首里城のみといわれている
中国→2層づくりの建築構造
正殿は中国・北京の「紫禁城」(写真)がモデルといわれる。2層づくりの屋根、基壇(基礎部分)の上に建物を建てる構造からその影響が見て取れる。ただし、首里城正殿は3階建て。これは諸外国の宮殿には見られない独自性といえる

 

首里城はどのように復元するのか

 
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text: Discover Japan photo: Yukiko Shiraki
2026年3月号「訪ねる建築 暮らす建築」

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