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民藝に造詣の深い哲学者・鞍田崇さんに聞く
100年続く民藝が愛され続ける理由【中編】

2023.8.4
<small>民藝に造詣の深い哲学者・鞍田崇さんに聞く</small><br>100年続く民藝が愛され続ける理由【中編】

「民藝」という言葉が生まれてから約100年。民藝はいかにして現在まで紡がれてきたのか。民藝に造詣の深い哲学者の鞍田崇さんに話を聞いた。

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長続きの裏にある“用の美”の観点

民藝が愛され続ける理由=暮らしに必要なもの×編集力
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生活がある限り民藝は続いていく

生活と結び付くことで未来にも受け継がれる

民藝品とは具体的にどのようなものを指すのか。「無名の職人によってつくられたもの」が一般的な解釈とされているが、民藝の系譜に連なる創作に勤しんだ染色工芸家・芹沢銈介や版画家・棟方志功は、片や人間国宝、片や文化勲章を受章するほどの作家であり、「民藝のプロデューサー」を自認した吉田璋也が指導したつくり手たちは、いまも名を馳せている。
 
「本来、民藝品とは、民藝という言葉が生まれる以前から、それぞれの地域に根ざしてつくられてきた生活道具のこと。分類すると、これを『古民藝』といい、もともとある技術と素材を生かし、柳や吉田ら民藝運動のメンバーの指導によって現代の暮らしに合うよう製作されたものは『新作民藝』、芹沢や棟方、河井のように民藝に触発された作家の作品は『作家民藝』とも呼ばれます」
 
民藝は「鑑賞」を主眼とする美術とは異なり、「使用」を目的とする。つまり「用」。柳は民藝における「用」を、どのようにとらえたのか。
 
「柳は『物への用』と『心への用』があると言いました。すなわち機能性と美しさです。しかもそれだけでなく、そもそも生活と結び付いている点にも注目し、それを『全き用』とも呼んでいました。この生活に寄り添うという点が、一番大事だと思います」
 
柳は民藝に通じる世界を「インティマシー(親しさ)」と表現しており、鞍田さんはそれを「いとおしさ」と呼ぶ。
 
「民藝には美しさや機能性ではくみつくせない、いとおしさが宿っています。民藝の現代的意義はそこにあるのではないでしょうか」
 
時の流れとともに、生活を取り巻く環境は大きく変わった。しかし人間が日々の営みを止めることはない。
 
「民藝がいまなお、共感を集める最大の理由。それは昔もいまも人が生活をしているから。テクノロジーの進化に伴い、ともすると生活のリアリティが希薄化しかねない中で、民藝に関心が寄せられ続けてきたのだと考えます」
 
柳の「言葉」の力も無視できない。
 
「柳はもともと哲学者で、実に深い思想を民藝に見出しているのですが、語り口はきわめて平易でわかりやすい。言葉と物の絶妙な調和と編集、さらにそれを届ける雑誌『工藝』や数々の刊行物の存在が、民藝の波及力と持続力を支えてきたともいえるでしょう」
 
さらに柳ら中核メンバーは、「日本民藝協会」の設立、「たくみ工藝店」の開店、「日本民藝館」(東京・駒場)の開設など、メディアとなるさまざまな媒体を駆使し、民藝運動を推進していった。その情熱は着実に実を結んでいる。

民藝を後世へと伝えた8人の敏腕編集者たち

仲間を広げたからこそ、多岐にわたる民藝運動は実現した
民藝運動といえば「民藝運動の父」と呼ばれる柳の名前がまず挙げられる。しかし民藝運動にはその想いに共感した人々がかかわっており、彼らなくして活動は成り立たなかった

読了ライン

哲学者 柳 宗悦
1889〜1961年。民藝運動を本格的に始動させてから72年の生涯を閉じるまで、数々の展覧会の開催、各地への調査や蒐集、執筆活動など、精力的な活動を続けた
陶芸家 河井寬次郎
1890〜1966年。1926年に発表した『日本民藝美術館設立趣意書』の起草に参加し、以降民藝運動の中心メンバーに。京都の旧宅は「河井寬次郎記念館」として公開されている
陶芸家 濱田庄司
1894〜1978年。東京高等工業学校(現東京工業大学)で上級である河井と親交を結ぶ。柳とは1919年、柳邸にいたバーナード・リーチを訪問した際に出会った
陶芸家 バーナード・リーチ
1887〜1979年。イギリス人陶芸家。幼少期に日本に住んだ経験をもち、1909年に再来日。その折、柳らと交流を深め、民藝運動をともに推進するようになる
染色工芸家 芹沢銈介
1895〜1984年。柳の著書『工藝の道』に感銘を受ける。1931年、柳からの依頼で雑誌『工藝』の装丁を手掛け、民藝運動に本格的に参加。重要無形文化財保持者
染織家 外村吉之介
1898〜1993年。牧師として活動するかたわら民藝運動に参加し、戦後は指導者的存在に。1939年に柳らと訪れた沖縄で民藝に感銘を受け、織物職人としての技術を磨く
医師 吉田璋也
1898〜1972年。雑誌『白樺』の影響を受け、柳に師事。1931年より民藝のつくり手を指導し、新作民藝に注力する。自らを「民藝のプロデューサー」と称して活動した
医師 式場隆三郎
1898〜1965年。文学に傾倒し、吉田璋也らと文芸雑誌を刊行する中で、白樺派のメンバーに師事。美術にも関心を寄せ、新潟医学専門学校卒業後、民藝運動に参加

 

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text: Nao Ohmori illustration: Hochi Kanata
Discover Japan 2023年6月号「愛されるブランドのつくり方。」

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