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栃木県《益子焼》
素朴な味わいと独特の技法
―風土を映す日本の焼き物

2022.8.3
栃木県《益子焼》<br> 素朴な味わいと独特の技法<br> <small>―風土を映す日本の焼き物</small>
photo:えのきだ窯

古くから全国各地で焼き物づくりが行われてきた“うつわ大国”日本。有田焼、唐津焼、瀬戸焼……国に指定されている伝統的工芸品だけでも31種類もの焼き物が存在する。本連載では、産地や種類によって、異なる個性を放つ焼き物ごとの特徴や、歴史などをひも解く。

今回紹介するのは、人間国宝の陶芸家・濱田庄司も愛した「益子焼」。いまも多くの作家が、オリジナリティを追い求めてつくり続ける益子焼とはどんな焼き物なのだろうか?

山水土瓶「さんすいどびん」皆川マス作 益子陶芸美術館蔵

国内と海外で異なった
益子焼のポジション

photo:えのきだ窯

ぽってりと自然味のある厚手の生地、素朴な色合いながらデザイン性・創作性が高い。現代の益子焼に、そんなイメージをもつ人も多いだろう。しかし、益子焼の歴史をひも解くと、昔からそうしたイメージだったわけではないことがわかる。

開窯は江戸時代の末。お隣の茨城県から笠間焼の技術を身につけた大塚啓三郎(おおつか・けいさぶろう)が、益子の地で窯を開いたのがはじまりとされる。黒羽藩からのサポートもあり、日用雑器を中心に大量生産、明治時代には広く関東へと益子焼は広まった。

つまり、かつての益子焼のうつわは、芸術性の高い作品というよりも、生活用の器としてのポジションであったことがわかる。
一方、海外では芸術性が評価されていたことも。明治時代の末から大正時代にかけては、益子焼の土瓶がアメリカで人気を呼び大量に輸出されたという。無名の絵師が描いた草花など、土瓶に描かれた日本らしいモチーフが、エキゾチックな魅力として、当時のアメリカ人の目に映ったのかもしれない。

いまの益子焼のイメージに
大きく貢献した人物とは?

益子焼の評価に転機が訪れたのは大正時代以降のこと。現代のようにクリエイティビティの高い作品群というイメージを強くもたれるようになったのは、ある人物の功績が大きい。

その人物とは、濱田庄司(はまだ・しょうじ)。後に重要無形文化財技術保持者、いわゆる人間国宝となった陶芸家だ。濱田庄司は、「用の美」を追求する民藝運動の創始メンバーのひとりでもある。

1924(大正13)年にこの地を訪れた濱田は、数年後にはここ益子の地に居を移す。それ以降、益子で作品をつくり続け、濱田の名とともに益子焼の名も、高い芸術性をともなうようになった。

現在の益子は、国内外の作家が集まる作陶の地として知られる。作家が多く移り住んでいるからか、他のうつわの生産地と比べて小規模な窯が多く、今日も多くの作家がオリジナリティを追い求め、作品を生み出し続けている。
※濱田庄司については後述

photo: Yuko Okoso
創作性を追求し、窯を自作する作家も

壺などの大型の焼き物が
益子焼に多かった理由

益子焼は笠間焼との関係が深く、笠間焼は信楽焼の流れをくむという。つまり益子焼は、信楽焼の系統に入るともいえる。
しかし、繊細な茶陶から大型の壺など、サイズの大小や用途も多岐にわたる信楽焼と益子焼には、ひとつ大きな違いがある。

それは材料となる土の性質だ。粘土として良質なため、つくり手にとっては扱いやすいといわれる信楽の土に対して、益子の土は粗く気泡が多い。決して扱いやすいわけではなく、薄く繊細な焼き物をつくるには不向き。そのため益子焼では開窯からしばらくは、厚手の壺や甕(かめ)など、大型の日用品が多くつくられていたという。
しかしそうした土の性質だからこそ、益子焼はたっぷりと厚手であり、野趣を醸す。作陶には不向きといわれた益子の土の性質は、今やアイデンティティのひとつであり、魅力の源泉ともいえるのだ。

photo:えのきだ窯
釉薬を施すプロセスには繊細な気遣いが必要

釉薬選びは陶土のデメリットを
フォローするためだった?

益子の土の特徴は、使われる釉薬の種類にも影響を及ぼし、益子焼らしい作風を醸し出すことにひと役買っている。
土の性質ゆえ、黒味がかる地肌をカバーするために、糠白釉(ぬかじろゆう)で白化粧を施したり、茶色の柿釉(かきゆう)を用いられることが多い。ほか黒釉や青釉(緑色)なども多用される。
それらの釉薬によるひなびた色合いも、益子焼らしさを印象付ける一方で、刷毛目(はけめ)や櫛目(くしめ)などの素朴な装飾が施されることも少なくない。

また益子焼の装飾といえば、ユニークなのが「流し描き」だろう。これは柄杓(ひしゃく)や土瓶に入れた釉薬を、素地に流し掛ける模様のつけ方。濱田庄司が得意としたといわれる、ダイナミックな技法だ。

益子焼ブランドの立役者
濱田庄司のあくなき探求心

自身の辿った足跡について、濱田庄司はこう語っている。
「京都で道を見つけ、英国ではじまり、沖縄で学び、益子で育った」

1894(明治27)年に生を受けた濱田庄司は、東京府立一中時代に陶芸家を志したという。東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の窯業科に進学、ここで知り合った河井寛次郎(かわい かんじろう)と同様に、京都の陶磁器試験場に入った。作品づくりをはじめたのは、この頃といわれる。

のちにイギリス人陶芸家として知られたバーナード・リーチと知己を得てイギリスへ。現地の陶芸を学びながら、自らの作品もつくり続けた。帰国後は益子に拠点を置きながら、沖縄へも長く滞在しつつ、作陶を深めていく。

生活用具に美を見つけ出す
その視点と活動、クリエイティビティ

濱田庄司の功績を語るうえで欠かせないのが民藝運動。人々の生活に密着した道具の中にこそ美しさがあると「用の美」を提唱、その魅力の再発見・再認識を促す運動だ。濱田は河井寛次郎や柳宗悦(やなぎ むねよし)とともに民藝運動を創始、その普及に努めた。
こうした活動は自身の作風にも色濃く反映。各地に残る民芸調の陶器にインスパイアされながらも、作家としての創作を突き詰める。そんな作陶スタイルをつくり上げていく。
濱田の創作活動に呼応するように、各地から作家が集まるようになり、益子は「創作作陶の地」となった。民藝運動が全国的な広がりを見せたこともあり、濱田庄司の影響は益子だけでなく、全国の窯業地へ及ぶといわれる。

人々が培った生活に敬意と美を見出す姿勢を貫き、一方で、日本のみならず海外の陶芸からも技術を取り入れ、貪欲なまでに自らをアップデートしていく。その上に自身のクリエイティビティを重ねていった濱田庄司。現代のわれわれが学ぶことも多い、陶芸界の巨人といえる。

作家の集まる街、益子
とくに目が離せないのは…

photo: Yuko Okoso

益子は、現代作家が集う地としても知られる。多くのクリエイターが集まるゆえ、いまや一般的な益子焼のカテゴリーに収まりきらない作家も現れはじめている。
そのひとりが芳賀龍一さんだ。
芳賀さんは2013年から益子に創作の場を構えている。益子の土に固執せず、遠くへと足を運び陶土を集め、窯も自作。その自由な作陶スタンスが現れた作品群に、いま注目が集まる作家だ。

 

 


text=Discover Japan
参考文献=うつわの教科書(枻出版社)、やきものの教科書(誠文堂新光社)、ゼロから分かる!やきもの入門(世界文化社)、47都道府県・やきもの百科(丸善出版)、公益財団法人濱田庄司記念益子参考館

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