民藝をいまこそ。
幸せを運ぶ他力本願【後編】

2020.11.24
民藝をいまこそ。<br>幸せを運ぶ他力本願【後編】
河井寬次郎の木彫像(1954)。各地の木喰仏に出合ったことが制作の契機となった ©渡邉務

私たちの目の前にある「民藝」は、うつわや型染の和紙、竹細工など「モノ」として存在します。そこに潜む民藝の思想とはいったい何なのでしょう。民藝に造詣が深い著述家・藍野裕之があらためてその本質を探ります。後編では、民藝が掲げる他力本願とは何を意味するのか、その神髄に迫ります。

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藍野 裕之(あいの・ひろゆき)
著述家。1962年、東京都豊島区生まれ。学術と芸術の都に憧れ続け、50歳を過ぎて京都に移住。永六輔氏の導きで民藝と出合い、民藝の品々、民藝運動に傾倒。『出西窯』(ダイヤモンド社)編集構成

「微笑仏」がつないだ友情が
民藝運動のはじまりだった

河井寬次郎が収集した木喰仏のひとつ。満面に微笑をたたえている。木喰上人の最晩年の作だという
©小野さゆり

「民衆的工藝」の略語として「民藝」が創出され、その後、仏教思想を取り込みながら深い思想的な展開をしていったのには、柳宗悦の存在が大きかった。柳は美学者で、民藝運動の指導者の中では唯一つくり手ではなかったが、類稀な目利きであり、思想家で、民藝運動の理論的支柱として膨大な著作を残していった。

柳は東京生まれだが、関東大震災の後の1924年に京都に移り住み、1年間のアメリカ留学を挟んで1933年まで京都に暮らした。実は、この柳が京都在住の間に民藝運動がはじまったのである。もちろん、生涯の友となる河井寬次郎との出会いも京都移住からだが、東京にいる頃の柳は、寬次郎を「東洋古陶磁の模倣に過ぎず、技巧と美とは違う」と痛烈に批判していた。それが急転して一気に親しくなっていくのに、木喰仏の果たした役割は大きい。河井寬次郎記念館の学芸員で寬次郎の孫の鷺珠江さんは言う。

「二人はなかなか近づいてゆきませんでした。河井は柳先生の家の前ま行っても帰ってきてしまう。いよいよ柳邸にうかがい、河井は木喰仏を見て感動してしまうんですね。それで、二人の仲は一気に氷解しました」

木喰仏とは、江戸時代後期を生きた遊行僧である木喰上人が、全国を旅する中で、各地に残していった木彫りの仏像である。仏像づくりの伝統にとらわれず、ノミの跡も残る荒削りな仏像だが、なんともいえない柔和な笑顔が特徴で、「微笑仏」ともいわれる。柳が収集と研究をはじめるまで、仏教美術史に取り上げられることもなく、ただ民衆の信仰心に寄り添いながら各地の家庭にあるだけだった。

この木喰仏の素晴らしさに意気投合した柳と河井は、やがて濱田庄司を加えて木喰仏の調査旅行に出る。そして、その道中で、「民衆的工藝」つまり民藝という言葉を創出し、これぞ美の本質だと確信していくのである。民藝の発見のきっかけが仏教美術だったのは、その後に民藝が仏教思想に接近していくことを暗示しているかのようだ。

ところで、民藝は多くの場合「民藝運動」と「運動」を添えて語られる。

「オルタナティブであるということが、民藝というコンセプトの立場でした。美術ではなく工芸、機械ではなくて仕事、高価なものでも、使われることから離れたものでもなく、生活の中の廉価な道具、民衆の日常使いの道具。別なるものへのたえざる志向の果てに見出されたのが民藝でした」と、著書で書いているのは哲学者の鞍田崇さんだ。鞍田さんは東京の大学で教鞭を執っているが、京都にも拠点をもっている。新型コロナウイルスの影響で、関西へ来る機会が訪れなかったそうだが、10月初旬に久しぶりに上洛されたのでお会いした。

話をうかがった人
鞍田崇(くらた・たかし)
哲学者。明治大学理工学部准教授。1970年、兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了

「民藝は近代化へのアンチテーゼですから、その普及は社会運動になったのですね。それから、用の美として民衆の生活に寄り添っていく工芸ですから、その時代の民衆の暮らしに合わせて変化する宿命を背負っていきました」

そう鞍田さんに教えられ、柳が民藝美学の礎として「他力道」をとらえ直した書『南無阿弥陀仏』(岩波文庫)を読みはじめた。そこで柳は、まず他力をこう説いていた。

「自己の一切をって仏力に任せ、この世を越えた浄い世界に生まれようと希う浄土の一道」

誰かの助けを借りて本願をかなえよということだが、誰かとは他人ではなく、人知を超えた力のことである。柳は、自力道を否定していないが、それは「天才の一道」、「選ばれたる者の道」だとした。一方、他力道は、自身の「小ささ、脆さ、弱さ、愚かさ」を心底自覚することからはじまると説いた。

政府主催の官設公募展で評価されるのは「天才」であり、「選ばれた者」の作品を手にできるのは一部の富裕層でしかない。まして、天才だと選び出すのは人間なのだ。選ぶ側は権威となり、やがて腐敗する。逆に、身の程を知った他力道から生み落とされたものは違う。柳は『民藝とは何か』(講談社学術文庫)で次のように述べる。

「誰も独占することのない共有のその世界、かかるものに美が宿るとは、幸福な報せではないでしょうか」

腐敗、さらには独占からも免れ、まったく別の共有という世界観を導き出している。どれほど柳が美を分かち合うことを望み、それが幸福と平和の礎だと思い至ったのかがわかる。

『南無阿弥陀仏』 著者|柳 宗悦 発行|岩波文庫
南無阿弥陀仏という6字の意味するものを説き明かしつつ、浄土思想=他力道を民藝美学の基盤としてとらえ直した作品。柳宗悦晩年の最高傑作とされ、格好の仏教入門書

民藝が教える他力本願とは
他人のために尽くすこと

河井寬次郎の木彫像(1954)。各地の木喰仏に出合ったことが制作の契機となった
©渡邉務

これほどまでに、柳が名を上げることとは無縁に生きる民衆の応援歌を歌い上げた背景には、関東大震災という大きな自然災害が少なからぬ影響を及ぼしたと思う。自らは生き永らえたが、目の前で町は灰塵に帰し、多くの人々が命を落としていった。しかし、生き残った民衆は悲しみに耐えながら、危機を共有して立ち上がったのである。天才の力を大きく超えた民衆の底力を感じたのだろう。

実は、民藝と他力を考えはじめる直前から、「利他性」が気にかかっていた。新型コロナウイルスとの共存社会での新しい生き方の指針を、さまざまな論客が語る中で、『どもる体』(医学書院)で知られる美学者の伊藤亜紗さんが優しく説いたのが「利他性」だった。私は、これを「病をうつされる」ことではなく、「病をうつしてしまう」に気を配ることだと理解した。自身を守ることからは争いや孤立しか生まず、逆に他者を意識することからは、危機、悲しみ、そして喜びを共有する感覚が芽生えたのである。

利他性と他力道に共通するものを感じた。民藝が掲げた「用の美」は、人々の暮らしに実用してもらうという考え方だ。そこには、他者の暮らしを思いやる利他性と美の共有の精神がありありと見える。そんな用の美の考え方を支えたのが他力道の思想なのだから、他力本願とは、他者に尽くしていくことでしか幸せは訪れないという考えだ。つまり、他力道から生み落とされる民藝は「幸せのうつわ」である。

『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする』著者|鞍田崇 発行|明治大学出版
民藝の時代背景を洗い直して「美しさ」ではくみ尽くせない別の側面を語り、暮らしや社会を自分たちの手に取り戻す糸口を民藝の中に探る

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