〈清少納言〉
天皇家の家庭教師も務めた才女
百人一首の女流歌人図鑑
日本の美しい原風景や歌人たちの心を感じられ、古典を気軽に楽しめるツールでもある百人一首。平安を中心にこの時代の日本文学界は女性の活躍が目覚ましく、百人一首には21人の女流歌人が選ばれている。
今回紹介するのは、『枕草子』の作者であり、天皇家の教育係も務めるなど、当時から才女として名高かった、清少納言。彼女の人物像や作品、ゆかりの地をひも解こう。
能ある鷹だからこそ爪は隠さない!
平安時代の貴族にとって、自分の娘が天皇の目に留まり、男児を生むというのは、出世の大チャンス。当時、生まれた子どもは母親の実家で育てられるため、母親の家族と密接な関係を持つようになる。その子が天皇になれば、母親の父(天皇にとっては母方の祖父)が、天皇の後見人として権力を握ることができたのだ。
娘がずっと天皇の寵愛を受けるにはどうすべきか? 若さや美貌、新鮮さは、どうしても失われていく。それを補うものの一つとして重要視されたのは気の利いた会話、すなわち教養である。そのために娘の教育係として誰を採用するかは重要な課題であり、「あの家の娘はこんな優秀な女性を家庭教師にしている」ということが、その娘の価値を高めることにもなったのだ。
「私、才女ですが何か?」
前置きがやや長くなったが、そうした中で、一条天皇の正妻である中宮の地位についていたのが、藤原野道隆の娘・定子。その家庭教師的役割を担っていたのが、当時才女として名高かった清少納言だ。
清少納言は祖父(曾祖父という説もある)の深養父、父の清原元輔ともに百人一首に歌が選ばれている、文才優れた一家に生まれた娘。紫式部もそうだが、当時は貴族の男子の必須の知識である漢籍に精通しており、しかもそれを隠さず和歌のやり取りなどに取り入れる「私、才女ですが何か?」という女性だった。
外国の故事に精通していることを和歌で披露
「世を込めて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」
百人一首に選ばれた清少納言の歌だ。
後拾遺和歌集に収められたものだ。意味は「夜が明けていないにもかかわらず、鶏の鳴きまねで騙そうとしても、逢坂の関はそうはいきません」。この歌がどんな状況で読まれたかが、彼女自身の手で枕草子に書かれている。
藤原行成と清少納言が雑談をしていたところ、行成が「内裏の物忌み(宮中で縁起の悪いことを避ける行事)があるので」と、途中で席を立って帰ってしまった。朝になって「昨夜は鶏に急き立てられたので帰ったが、本当はもっと話をしていたかった」と手紙に書いてきた行成に、清少納言は中国の古典『史記』の故事を引き合いに、「函谷関を鶏の鳴きまねで開けさせたという、孟嘗君(斉の王族)の話に出てくる、あの鶏の声のことですか」と返事を返す。
ツーと言えばカーと気の利いた答えを返してくる清少納言に、調子に乗った行成は「あれは函谷関の関所の話ですが、私たちの間にあるのは同じ関でも(男女の仲を指す逢瀬とかけた)逢坂の関ですよ」と返答を出す。すると清少納言はこの「世を込めて~」の歌で「函谷関の関は鶏の鳴きまねで騙して開けさせられても、逢坂の関、つまりあなたと会う逢坂の関はそんなことで開きません」と、調子に乗った行成を「その手には乗るもんですか(笑)」と軽くいなしたのだ。
紫式部の対抗意識は、
天皇の寵愛を争う后の代理戦争
このやり取りの相手である藤原行成も、この時代にその名を知られる文化人。そうした人との機知に富んだやり取りを臆面もなく書くのが、清少納言の特徴だろう。彼女の随筆「枕草子」には、こうした「才能あふれる私の素敵なエピソード」が書き連ねてある。
そんな彼女のあからさまな自慢に満ちた自分語りを、紫式部は「紫式部日記」で「なんなんでしょうね、あの自慢気な女は!」と批判している。清少納言と紫式部は、お互いが「我こそは当代一の才女!」として競うだけでなく、彼女たちが仕える定子と彰子、天皇の寵愛を競う二人の女性の、いわば代理戦争的な意味合いもあり、まさに絶対に負けられないライバルだったのだ。
清少納言が仕える定子の父・藤原野道隆が死ぬと、正妻の地位にある定子と同じに地位に、藤原道長が娘の彰子を押し上げるという暴挙に出る。天皇の寵愛は変わらなかったものの、父という後ろ盾を失った定子は不遇の身となり、25歳で夭折。彼女に心を込めて仕えた清少納言も表舞台から身を引くという結末に終わる。
清少納言ゆかりの地
泉涌寺
清少納言が宮廷を引いたあとに住んだと言われているのが、京都の月輪地区。清少納言の父・清原元輔の館があったと言われている場所だ。ここは清少納言が仕えた定子の墓からも近く、彼女がいかに定子を慕い、生涯をささげて仕えていこうと思っていたのかがしのばれる。清少納言が晩年を過ごした月輪の地に立つ泉涌寺には、百人一首に選ばれた「夜を込めて~」の歌を刻んだ歌碑や供養塔などがあり、観光名所のひとつになっている。
ちなみに清少納言が晩年をどこで過ごしたかには諸説あり、父の一族がいた四国へ渡り、そこで亡くなったとも言われている。華やかな宮廷でその才能をいかんなく発揮した政所納言の晩年は、誰からも振り返られることのない寂しいものだったようだ。
読了ライン
泉涌寺
住所|京都府京都市東山区泉涌寺山内町2
Tel|075-561-1551
https://mitera.org
ライタープロフィール
湊屋一子(みなとや・いちこ)
大概カイケツ Bricoleur。あえて専門を持たず、ジャンルをまたいで仕事をする執筆者。趣味が高じた落語戯作者であり、江戸庶民文化には特に詳しい。「知らない」とめったに言わない、横町のご隠居的キャラクター。
photo=隨心院、国立国会図書館デジタルコレクション、ColBase
参考文献=こんなに面白かった「百人一首」(PHP文庫)、紫式部と源氏物語ゆかりの地を巡る(東京ニュース通信社)、図説 百人一首(河出書房新社)、百人一首(全)(角川ソフィア文庫)