あらためて「二条城」を知る!
2026年に寛永行幸を追体験する前に
いまから約400年前の1626(寛永3)年9月6日、京の都で空前絶後のパレードが繰り広げられた。大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光の招きに応じ、後水尾天皇が二条城へと向かった寛永行幸の大行列だ。実はこの寛永行幸のために大改修されて生まれたものが、今の姿の二条城。あらためて二条城の成り立ちを振り返る。
寛永行幸のための大改修
二条城は1603(慶長8)年、徳川家康が築城。家康と息子・秀忠はそれぞれ将軍就任時に二条城で祝宴を開き、大坂の陣で勝利すると戦勝を祝う能興行も催す。こうして二条城は幕府の京都支配を象徴する城となった。
その後、秀忠の娘・和子が後水尾天皇に輿入れし中宮になると、大御所となった秀忠は二条城の大改修を命じる。築城以来の最大イベント、寛永行幸を行うためだ。

渡り廊下で全棟がつながっていた?
行幸に向けて、二の丸御殿の西には本丸御殿が建てられ、その南西隅に天守が置かれた。後水尾天皇は、滞在の間この天守に二度も上り、京の眺めを楽しんだ。二の丸御殿から本丸櫓門へと2階建ての橋廊下が渡され、天皇は地面に下りることなく2階の畳廊下を通り、天守へと向かったといわれる
『二条御城中絵図』/京都大学附属図書館蔵
城域を西へ広げ、秀忠の居所として本丸を新設。二の丸は将軍家光のために改修し、さらに二の丸庭園の南側に天皇が滞在する行幸御殿、和子のための中宮御殿、そして後水尾天皇の母・中和門院のための女院御殿を建てる。各御殿は狩野派による障壁画で華やかに彩られた。「行幸のために御殿がわざわざ築かれたわけです。工事は小堀遠州ら作事奉行と京都大工頭の中井家が取り仕切ったようです」と梅原さん。幕府の権威を見せつける舞台を整えたのだ。

行幸のもてなしの場となった二の丸御殿の約3600面の障壁画は、幕府の御用絵師・狩野派が描いた。とりわけ、当時24歳の若きリーダー・狩野探幽が手掛けたとされる大広間一の間の『松図』は目を見張るダイナミックさ。松の枝が天井いっぱいまで大きく伸び、将軍の権威をより高める舞台装置に
天皇が滞在した5日間には多彩な催しが行われた。中でも幕府の式楽・猿楽(能)は、二の丸庭園の一画に設けられた能舞台で上演、一日がかりの盛大な能興行だったようだ。連日の宴には宮中、幕府の庖丁人が集められて、公武の参加者へ豪華な料理が振る舞われ、金銀のうつわが特別に調製されるなど、まさに贅の限りを尽くしたもてなしだったという。
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寛永行幸で振る舞われたのは、銘々に膳をいくつも並べ供される「本膳料理」。古来の大饗料理の儀礼的部分と鎌倉期以降の精進料理の技が結び付き、武家が客人をもてなす料理として確立した様式だ。契りの盃を交わす「式三献」からはじまる饗宴では、近世史上最高の御膳が並んだとされている
『二条城行幸御献立絵図』/萬亀楼蔵

携わったとされる庭も
寛永の大改修を担当した一人は、譜代大名で今日、茶人・作庭家としても知られる小堀遠州。二の丸庭園も遠州が改修し、天皇が滞在する行幸御殿からの眺め、大名が居並んだ二の丸御殿の大広間や黒書院からの眺めを計算し尽くし刷新した
二条城年表
| 1601年 | 徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す1603年 二条城が完成し、家康が入城 |
| 1614年 | 家康、二条城から大坂冬の陣に出陣 |
| 1615年 | 家康、二条城から大坂夏の陣に出陣 |
| 1624年 | 徳川秀忠が寛永の大改修に着手 |
| 1626年 | 寛永行幸が行われる |
| 1867年 | 徳川慶喜が二条城で大政奉還の意思を表明 |
| 1868年 | 城内に現在の内閣府にあたる太政官代が置かれる |
| 1871年 | 城内に京都府庁が置かれる |
| 1884年 | 皇室の別邸「二条離宮」となる |
| 1939年 | 宮内省が二条離宮を京都市に下賜 |
| 1940年 | 「恩賜元離宮二条城」として一般公開がはじまる |
text: Kaori Nagano(Arika Inc.) photo: Mariko Taya
2025年12月号「京都/冬こそ訪れたいあの旅先へ」


































