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《聖徳太子のふるさと奈良・明日香村へ》
古都のパワースポット「石舞台古墳」

2021.10.24
<small>《聖徳太子のふるさと奈良・明日香村へ》</small><br>古都のパワースポット「石舞台古墳」

聖徳太子1400年遠忌の今年、特別展「聖徳太子と法隆寺」が奈良国立博物館から東京国立博物館へ巡回し、この秋からも各地でさまざまな催しが開催予定。話題沸騰の特別展を通して聖徳太子を身近に感じたなら、次は聖徳太子のふるさと・明日香村を訪ねてみるのもおすすめ。日本人なら誰もが懐かしいと感じる風景と、いまの時代の支えになる教えに出合えるはずです。聖徳太子ゆかりの地と明日香村の魅力を紹介します。

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古墳脇に展示されている石棺のレプリカ。石室内で発見された凝灰岩の破片などから推測、復元された

石舞台古墳
6〜7世紀築造の日本最大級の方墳。盛土が失われた横穴式石室の天井石の上面が平らであることから、石舞台の名がついた。近くの島庄遺跡から、蘇我馬子の邸宅跡が発見されていること、7基の小古墳をつぶして造成した跡があることなどから、被葬者は馬子の可能性が高いとされる。なお、古墳の盛土がない理由は、大化の改新で蘇我氏が滅んだ後、蘇我氏に恨みをもつ人々が報復したとも、後の時代の人々が宅地造成のために土をはがしたともといわれる。

 

東側から見た石舞台古墳。最も大きいとされるふたつの天井石は南側が約77t、北側が約64t

最後に訪ねたのは「石舞台古墳」。総重量2300t、30数個の巨石を積み上げた横穴式石室があらわになった古墳で、蘇我馬子の墓と推定されている。地下の石室は高さ約5m、長さ約8m。壮大な空間と石工の技術力にほれぼれとしてしまう。実は、村内には飛鳥時代の石像物が多数存在する。中には噴水のように精巧な構造をもつものも。太子が取り入れた大陸の技術と革新の賜物なのかもしれない。

明日香を旅すると、高度な文化が結集した都市的な側面と、八百万の神々が宿る美しい自然が共存していることに気づく。聖徳太子が帰依した仏教は、土着の文化を排除するものではなかった。むしろうまく融合させながら、民の暮らしを豊かにしてきたのだろう。

埋葬者の棺を納める石室内部。どのように巨石を運び、積み上げたのか? 解明が進められている
石室と外部をつなぐ11.5mの羨道(せんどう)。中央の排水溝は、石室に貯まった水を掃き出すためのもの

石舞台古墳
住所|奈良県高市郡明日香村島庄254

時間|8:30〜17:00
料金|300円、高校生以下100円

明日香村コラム

明日香と飛鳥、何が違う?
小誌でも、ふたつの「アスカ」の漢字が登場するが、実は記紀や万葉集において、どちらも用いられていた。一説では「飛鳥(とぶとり)の明日香」として、土地の枕詞であった飛鳥が、後にアスカと読まれるようになったとも。村名では長く「飛鳥」が用いられてきたが、1956年に高市村・阪合村・飛鳥村が合併した際、歴史に立ち返り「明日香村」が誕生。

謎の石物、亀石とは?
明日香に残る謎の石造物のひとつで、巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られている。川原寺の四方の境界を表すとも、大和が湖だった時代の亀を弔ったものとも。この石が西を向くと大和が泥の海に沈むという伝説も。

現代の街づくりに生きる聖徳太子の教え
「聖徳太子は超人的な伝説で語られることが多い人物ですが、歴史を丁寧に追っていくと、等身大の姿が見えてきます。その最たるものが、外交に力を注ぎ、そこから得た文化や制度を柔軟に国づくりに取り入れた敏腕プロデューサー的側面。当時の海外と交易港・難波津(難波港)と当時の中心地・飛鳥京の間に斑鳩宮を設け、三者をつなぐ太子道づくりの手腕も実に鮮やかです。こうした太子の志に負けぬよう、私たちは歴史・自然遺産を守り継いできました。いま、『飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群』の2024年の世界遺産登録を目指しています。この村に先進的な文化が息づいていたことを美しい自然景観とともに五感で感じ、未来を生き抜く知恵やヒントを見つけてもらえたらうれしいですね」(明日香村村長・森川裕一さん)

亀石
住所|奈良県高市郡明日香村川原

時間|自由
料金|無料

 

美食も体験も!
歴史探訪だけじゃない明日香村の楽しみ方
 

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text: Noriko Yamaguchi photo: Mitsuyuki Nakajima
Discover Japan 2021年10月号「秘密の京都?日本の新定番?」

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