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《星のや京都》
書道家・根本 知が日本の美意識を和歌に詠む
前編|冷泉家当主が奥嵐山の歌詠み指南

2024.10.31
《星のや京都》<br>書道家・根本 知が日本の美意識を和歌に詠む<br><small>前編|冷泉家当主が奥嵐山の歌詠み指南</small>

NHK大河ドラマ『光る君へ』の題字を手掛ける書道家・根本 知さんが、「星のや京都」に滞在。​​各施設が独創的なテーマで圧倒的非日常を提供する「星のや」。京都・嵐山で体験できる、平安貴族が愛した歌会や雅楽の催しを通して源氏物語の世界に浸り、日本人がもつ美意識とは?

根本 知(ねもと さとし)
書道家。立正大学文学部特任講師。NHK大河ドラマ『光る君へ』題字揮毫及び書道指導。雑誌『なごみ』(淡交社)「くずし字道場」、WEB連載「ひとうたの茶席」で連載。近著に『書の風流 近代藝術家の美学』(春陽堂書店)がある

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800年にわたり和歌を守り伝える
冷泉家当主が奥嵐山の歌詠みを指南

日本人の四季表現を学び、冷泉流歌道の手ほどきを受け、実際に和歌をつくる。完成した和歌は短冊にしたため、声に出して詠む。年4回ほどの催しで、2024年は11月30日を予定

平安貴族が別荘を構え、『源氏物語』の舞台にもなった京都・嵐山。平安時代から鎌倉時代にかけての歌人、藤原定家は、対岸にある小倉山の山荘で『小倉百人一首』を編纂した。「藤原定家は、平安貴族の雅で明るい世界から、はじめてほの暗い世界に目を向けた人だと思っています」とは書道家の根本知さん。「嵐山は紅葉が美しいのはもちろんのこと、雨が降り、霧がかったときのほの暗さもまたよく、そういった自然に包まれて自分と向き合える場所だったのでしょう」。

「星のや京都」は、渡月橋(とげつきょう)のたもとから船で15分ほど上った水辺にある。平安貴族が愛した舟遊び、香木の香りを聞く「聞香」、蛤の柄を合わせていく「貝覆い」など、嵐山の世界にぐっと入っていける催しが好評だ。

2022年から行っているのが、冷泉家(れいぜいけ)当主夫妻が和歌の世界へ誘う「奥嵐山の歌詠み」。冷泉家は、藤原俊成(しゅんぜい)、定家父子を祖先にもち、「和歌の家」として代々、朝廷に仕えた公家。二五代当主・冷泉為人(ためひと)さん、当主夫人・貴実子さんは、京都で800年にわたり和歌を守り伝えている。

11月中旬ごろから12月上旬ぐらいまで、まさに美しい錦のようなグラデーションで色づく星のや京都のあたり。翡翠色の大堰川(おおいがわ)とも相まって、幽玄の世界のような趣に

紀貫之『古今和歌集』の「仮名序」にはじまる平安時代の和歌には王朝人の心と言葉があり、それが日本人の美の原点であると為人さん。それは何かといえば、和歌には必ず四季があり、春は「梅に鶯」、秋は「紅葉に鹿」といった決まった型があると貴実子さん。
「実際は梅の季節に鶯は鳴きません。でも梅と鶯と聞いて春だなと思うのは、私たちの長い伝統の中に築かれたひとつの型の文化。それが〝やまとの美〟であり、日本人の教養なのです」

日本人の四季表現とはどんなものだろう。貴実子さんは、和歌に使われる秋の表現を一枚の紙に用意してくれた。もみぢ、初入、ひとしほ、錦織りなす、露の下染め、竜田姫、色照る山、時雨に染まる。その一つひとつの言葉の意味を教わるにつれ、日本人の言葉の豊かさを思い知る。

冷泉為人さんに和歌の心や歴史を学ぶ。『古今和歌集』、『源氏物語』、『新古今和歌集』など平安・鎌倉時代の和歌には王朝人の心と言葉があり、それは現代人にも息づいていると為人さん

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和歌の基本を学んだ後、畳の間に移動し、静かに墨をする。根本さんは少し考え、さらさらと筆を動かした。

『しぐれては下葉のこらずいろ付いてやまにしみいる秋のいろかな』

星のや京都の催し「奥嵐山の歌詠み」にて、「紅葉」と題した一首をしたためる根本さん。日本人の美意識が表れるやまと言葉、のびやかなかな文字の美しさに気づかされる

「“下葉残らず色づきにけり”と詠った古歌を思い出しました。露と同じく水である時雨が葉を秋の色に染めていき、葉は落ちて嵐山に染みていった。やがて冬になるだろう、というイメージです」

王朝人が見た紅葉、山並み、時雨といった景色に、いまの時代の人たちも同様に心動かされることがある。やまと言葉で歌を詠むとは、それを確かめることかもしれないと根本さん。

歌会でつくった歌は貴実子さんにチェックしていただき、必要なら手直しをして短冊に清書する。藤原俊成・定家を祖先にもつ家元に直接指導いただける、またとない機会となる

「奥嵐山の歌詠み」には続きがある。翌日、為人さん、貴実子さんの住まいであり、現存する唯一の公家屋敷である「冷泉家住宅」を特別に見学させていただけるのだ。

かつて京都の街は、天皇の住まいである禁裏の周りに公家衆が集められ、祭りと政治を執り行っていた。年中行事が大事にされ、公家衆はそれを支えていく中で、だんだん家ごとの専門性が出る。冷泉家の場合は歌であった。御所で歌会が催されれば、公家たちは歌を習いに冷泉家を訪れるようになり、家元制度が生まれる。

秋の情景を五七五七七にまとめ上げた根本さんの一首。和歌は決まった型を使うところに確固たる美がある。明治時代に西洋から入ってきた、個性を尊重する芸術の流れにある現代短歌とは別もの

冷泉家が京都御所の北に屋敷を定めたのは1606年、江戸幕府が開かれてすぐのこと。政治の舞台は江戸に移ったが、当時、御所の周りには衣紋、花、雅楽、蹴鞠、書などさまざまな分野を専門につかさどる家元がいた。上方の文化はみなここにあり、文化を伝えるという意味で、家元制度ほどうまいやり方はない。そんな話をうかがい、建物を案内いただくと、ここが上方文化の源泉なのだと感慨深い。

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星のや京都で過ごす風雅な滞在とは?
 
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text: Yukie Masumoto photo: Atsushi Yamahira
Discover Japan 2024年11月号「京都」

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