岩手県盛岡市《釜定》
南部鉄器×北欧に学んだデザインが織りなす“用の美”
鉄瓶で白湯を淹れると鉄分補給になるなど、いまその存在が再評価されている鉄製品。なかでも岩手県盛岡市で100年以上続く南部鉄器工房「釜定」のプロダクトは、伝統技術と現代の暮らしに馴染むデザインを掛け合わせた魅力的なラインアップを展開している。
フィンランドで暮らしたことのある3代目・宮伸穂さんに現デザインのルーツや今後についてうかがいました。
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初代の愛称が由来?!
釜定の歴史
いまや世界的に知名度を広げている南部鉄器。そのはじまりは岩手県にあるふたつの小さな町に起因する。岩手県盛岡市と奥州市(旧・水沢市)では古くから鉄鋳物の技術が根付いており、江戸時代初期には製造していたことが記録されている。盛岡を拠点としていた南部盛岡藩の8代目藩主・南部利雄は茶の湯を愛していたことから湯釜や茶釜づくりに注力し、南部の鉄製品の評判は諸国に広がっていった。その後、明治維新や第二次世界大戦などの危機を乗り越えて技術は継承された。1970年代になると高度経済成長に伴う経済のひずみなどを受け、日本の伝統的工芸品全体が衰退する事態となっていた。これを受け伝統的工芸品の振興策として1975年、通称「伝産法」が議員立法で成立した。しかし産地認定の条件で地理的に近い同じ産業は統一する必要があり、 歴史や製造品の違いはあるが盛岡と水沢の2地区は鋳物産地として統合し「南部鉄器」という名前で申請することなる。このような経緯を経て1975(昭和50)年、伝統的工芸品第一号の認定に至った。
釜定の歴史は1908(明治41)年、「宮鉄瓶店」という名前からはじまった。
「少なくとも戦後はすでに釜定と呼ばれていました。初代の名前が定吉でしたから、愛称の“釜屋の定吉”から転じたんじゃないかな」と話すのは、3代目の宮伸穂さん。
「いまのスタイルになったのは父であり2代目の昌太郎の代から。明治から盛岡の南部鉄瓶は知名度がありましたが、戦後、生活様式の変化や量産型産業などによるものづくりの変化によって、鉄瓶は実用品ではなく趣味の世界のものになっていきました」
さらに、職人が手作業でつくるものはおのずと価格が高くなり、買える層も限られてくることもあり、鉄瓶づくりの発展は困難になってきていた。その危機をいち早く察知した昌太郎さんは、従来の鉄瓶ではなく日常使いできる鉄器とそれを量産する技術を模索し始め、新たな鉄器のデザイン、様式を開拓していった。昌太郎さんは民藝運動にも積極的に参加し、ある日柳宗悦が好みの鉄釜を持って訪ねてきて「この釜を写してほしい」と言ったが、「人の真似はしない」と断ったという。「そのときは父はすでに南部鉄器が民藝の領域を超えていくことを予測していたのだろう」と伸穂さんは語る。
そんなものづくりへの愛に溢れた背中を見て育った伸穂さんは、父親の急逝を機に1977(昭和52)年、家業を継ぐ運びとなった。
北欧から学んだ“オリジナリティ”の考え方
現在の釜定のラインアップは、初代からの鉄瓶類と昌太郎さんがデザインしてクラフト・センター・ジャパン(CCJ)に選定された物を中心として、昭和40年頃に作られたカタログをベースにしている。その後、昭和50年頃から釜定を継いだ伸穂さんがデザインした物を随時追加、廃盤を重ねるなどしていまに至っている。従って定吉さんの伝統的鉄瓶、昌太郎さんのクラフト鉄器、伸穂さんの手仕事とプロダクトの融合、という流れで構成されている。
伸穂さんは美術大学を卒業修了し、釜定の3代目となったが、現在のスタイルが構築されるにあたってフィンランドでの在住経験がヒントになっているという。
伸穂さんは生前の昌太郎さんの口から、スカンジナビアデザインやカイ・フランクという言葉を聞き、強い関心を持っていた。偶然30歳のときロータリークラブが募集した社会人海外研究交流事業に応募しフィンランド渡航の機会を得た。研究では「スカンジナビアデザインの生まれた背景」をテーマにひと月あまりフィンランド各地を視察した。
「特別な教育機関に通ったわけではないけれど、その国の歴史や風土を実体験したことで北欧の社会全体について理解を深め、デザインを含めた文化がどのように育ってきたかを考察することが目的だったので、この経験で得た識見を今後の自分の仕事に生かしていければと思っていました。北欧ではデザインに“オリジナリティ”があるかどうかが重要視されていました。“オリジナリティ”とは、自分の生きてきた国や生い立ちの中から生まれてくるもの。デザインは単なるスタイルではなく、“背景の裏付けがあるか”が大切であるということを学びました。北欧はかなり明確にそのことを意識して文化政策に取り組んでいました。ひきかえ日本人である自分はデザインが生まれる背景である自分の国や地域を知っていたようで知らなかったことに気が付きました」
帰国後、伸穂さんはすぐに歴史や茶の湯をはじめ日本を学び直し、他方作品のコンセプトを明確に文章化する習慣を訓練、重ねていった。
生活を豊かにする、
現代に合わせた“用の美”
釜定のプロダクトは、クラシックさとスタイリッシュなデザインを兼ね備えている。そしてIH対応やスタッキングなど使い手の気持ちに寄り添った機能性も大きな魅力のひとつだ。
「自分の日常と離れたものは作れません。カスタムメイドやコラボレーションで自分の感性と異なる要求を受けることがありますが、それをきっかけに勉強して自分のキャパシティを拡げるようにしています。いまは照明具を開発していて、電気の問題やLEDの扱いについて見識を深めているところです」
代々続いた釜定らしさを残しながら、さまざまなコトモノから学びを得て、常にアップデートしている伸穂さんの手仕事。そんな伸穂さんに釜定が今後目指す先についてうかがった。
「気取っているかもしれませんが、松尾芭蕉でいう“不易流行”、千利休の“守破離”、この言葉は日本の工芸品にも流れている哲学だと思っています。また好きな言葉である“Less is More”、“God is in the detail”。これらを信条にしたものづくりを目指していきたいと思っています。また忘れてはならないのは、仕事のマナー、手を抜かないこと。例えば工具の痕跡が残っていたり、器なら水漏れはないか、鉄は硬くて里いので人や物を傷つけないか、などチェックの目を逃れやすい部分にも注意を払います。こういった基本的なことは作りながら体で修得する部分が多いのですが、迷ったときは先輩方が作った古い品を見て学び、原点に立ち戻ることも重要です。そうして気付きを得て、また新しく“破る”。世の中が動くスピードにも適応していかなければなりません。それはデザインをやっている者の宿命だと思っています。ただ次の世代には次の世代の新しい取り組みがあるので、それは尊重しなくてはいけないと思っています」
自身も先代が築いたものから学び、そして壊したことで現在のスタイルを確立していった伸穂さん。次世代、次々世代へと受け継がれていくこのものづくりの精神こそが、釜定が残り続けていく理由なのかもしれない。
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釜定
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