熟成日本酒の世界【前編】
海外からも注目される日本酒の可能性
出来たてのフレッシュな新酒が歓迎される日本酒の世界で、いまひそかなブームとなっているのが「熟成日本酒」。海外からも熱視線が注がれている、その理由とは? 熟成日本酒の第一人者に、その魅力について聞いてみた。
古くて新しい。日本酒の愉しみ
まるでロゼワインかと見紛うような赤褐色の純米原酒は千葉「木戸泉酒造」の「古今」。東欧・ジョージアのアンバーワインにも似た琥珀色を放つ純米大吟醸は京都「増田德兵衞商店」の「月の桂」で、ミディアムボディの白ワインのごとき黄色を帯びた純米大吟醸は群馬「永井酒造」の「水芭蕉」。下の写真で紹介している熟成日本酒だ。2023年6月に東京・半蔵門で開業した日本酒バー「熟と燗」に並ぶ銘柄で、その水色はおよそ日本酒とは思えぬほどバラエティに富んでいる。
「いずれの日本酒も熟成をかけたものばかりです」。そう話す、オーナーの上野伸弘さん。いまツウな左党が注目する熟成日本酒を広めた、第一人者だ。いち早く熟成日本酒の魅力を広めるために2002年に、東京・品川に長期熟成日本酒バー「酒茶論」を開業。コロナ禍を経て店はいったん銀座に移転、その後半蔵門で「熟と燗」としてリニューアルした。杉の一枚板のバーカウンターでは、上野さんセレクトの熟成日本酒がじっくりと楽しめ、代表的な銘柄が購入できる販売コーナーも併設されている。
元は東京・紀尾井町「ホテルニューオータニ」でバーテンダーとして働いていた上野さん。洋酒が専門だった彼が日本酒に関心をもちはじめたのは、1986年の東京サミットで各国首脳のサービスを担当したのがきっかけだった。「首相官邸での晩餐会の乾杯で採用された日本酒の質に納得できなかったのです。価格もワインなどと比べると、非常に安かった。さまざまなしがらみがあってその銘柄に決まったそうですが、これを機に日本を代表する酒の姿とは何か、本気で考えるようになったのです」。
ウイスキーにワイン、シェリーにラムなど。世界中を見渡せば、熟成は酒を美味しく味わうための定石だ。
「日本酒は新酒、フレッシュな味わいこそが美味との認識が強い。でも洋酒に倣って熟成をかけてみたら? と自分で試すようになりました」
いろいろな日本酒を取り寄せては寝かせる日々。ちょうどこの頃、上野さんは「ホテルニューオータニ」内のフレンチレストラン「トゥールダルジャン 東京」のバー責任者になっていた。熟成をかけた日本酒をフランス人スタッフたちに試飲してもらったところ、「美味しい!」のオンパレード。「日本酒が得意でないと言っていた人も気に入ってくれました。日本酒の可能性は熟成にある、と確信した瞬間です」。
日本酒は熟成をかけることで味わいに奥行きと幅、独特の香味が生まれる。上野さんはこの価値観をさらに広めるべく、日本酒の蔵元とともに一般社団法人「刻SAKE協会」を設立し、いまではその常任理事も務める。
ここ「熟と燗」では3タイプの熟成日本酒が楽しめる。ひとつは10℃以下で寝かせる「熟成酒」。香りが穏やかで飲みやすいために初心者におすすめだ。次が常温で熟成をかけた「古酒」。口当たりがよく、熟成日本酒の味わいがストレートに伝わってくる。最後が「お燗」。茶道具の鉄瓶でゆっくりとそれぞれの銘柄の適温に温められて提供される。熟成日本酒がもつ独特の香味と繊細な風味を楽しめるのが、この温度帯だ。どの銘柄がどのタイプに適しているかは上野さんがあらかじめ決めているため、自分の好みを伝えれば、おのずと最適な一杯が出てくる。また瓶、樽、磁器など熟成させる容器で風味も異なるため、その差異も楽しめる。
「日本酒の熟成って、何も新しい話ではないのです。平安時代の文献を当たれば、『古酒』という言葉が出てきます。奇数である3・5・7・9年寝かした酒は縁起がいいとされ、宮中の祝言の儀式では9年古酒が重宝されました」。江戸時代までは、庶民も熟成日本酒を楽しんでいたと話す上野さん。 状況が一変したのは明治時代。酒税は販売量でなく製造量に対して課せられ、蔵元が日本酒を寝かせることが経済的に負担になる時代になったのだ。
「そのときに廃れてしまった日本酒の熟成。でもこの方法は無限の味わいの可能性を秘めています。日本酒がもつポテンシャルをさらに伝えるために、私は日本の蔵元が誇る熟成の技術に、今後も期待をし、発信し続けます」
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text: Koji Okano photo: Hiroshi Abe
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