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上田優紀にとって山の朝食は
〝生きる幸せ〟を実感させてくれる
エッセイ《読む朝食》

2023.6.14
上田優紀にとって山の朝食は<br>〝生きる幸せ〟を実感させてくれる<br><small>エッセイ《読む朝食》</small>

朝ごはんとの向き合い方や内容は人それぞれ。《私の定番、忘れられないあの味》をテーマにしたエッセイを4名の方に寄稿いただきました。 今回は、上田優紀さんが「山の朝食」について語ります。

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上田優紀(うえだ・ゆうき)
1988年生まれ。京都外国語大学を卒業後、1年半をかけて45カ国を回る。帰国後アマナに入社。2016年よりフリーランスとなり世界中の極地、へき地を旅しながら撮影を行う。近年はヒマラヤにて8000m峰を中心に撮影。2018年アマ・ダブラム(6856m)、2019年マナスル(8163m)、2021年エベレスト(8848m)登頂

山の朝は早い。まだ朝日が昇る前、森は靄に包まれて異様なほどの静けさが広がっている。真っ暗なテントの中、寝袋から身体を起こすともう初夏も近づいているというのに少し肌寒かった。寝ぼけ眼をこすりながらヘッドライトをつける。さぁ長い一日がはじまる。今日は午前中に登頂して、夕方までには下山する予定だ。そのためにまず朝食を食べる。一日中歩き続けられるだけのエネルギーを摂取しなくてはいけない。山において、朝食は命にかかわってくるほど重要なことでもあるのだ。
 
狭いテントから出て、近くの小川まで行き、水をくむ。川の清流は驚くほど冷たくて、ついでに顔を洗うと一気に目が覚めた。テントに戻ってコッヘルを探し出し、くんできたばかりの森の天然水を火にかける。沸騰するのを待っている間、ザックからチタン製のコップを取り出して、ペーパーフィルターをセットする。コップはもう何年も使っているから決してきれいとは言えないが、ヒマラヤ遠征にだって持って行っている相棒だ。登山やキャンプでテント泊をするとき、朝はいつだってコーヒーを淹れることからはじまる。それは僕にとって数少ないルーティンと言ってもいい。コーヒー豆に特にこだわりはないけど、スターバックスのちょっといい豆を家で粉に挽いて、ジップロックで密封して持って行く。そうこうしているうちに熱湯が沸くので、ゆっくりとコーヒーをドリップする。トンットンッと一滴ずつ一定の速度でコップにコーヒーが落ちていく音が響いて、次第にテントの中がその香ばしい薫りで満たされると、心から幸せな気持ちになる。コップいっぱいにたまった熱いコーヒーを、気をつけながら口に運ぶと、ゆっくりと身体に染み込んでいく。ただのどを通って、胃に落ちるのではない。冷え切った身体の隅々にまで熱がじわっと広がっていくと、あぁ生きているなと実感する。

1杯目のコーヒーを飲み終わる頃、外の明るさに気がついてテントの入り口を開くと、木々の隙間から光芒がところどころ差し込み、遠くから動物の声も聞こえてくる。なんて美しい朝なんだろう。その光景だけですぐに歩き出したくなるが、身体はそれを許してくれない。残念ながら、自動車と同じように人間も燃料がなければ動くことはできない。2杯目のコーヒーをコップに注ぎ、朝食の準備をはじめる。撮影機材があるため、僕のザックは普通の人より何キロも重いことが多い。当然、重い荷物を運ぶにはその分、一日に必要なカロリーも多くなってくるので、朝ごはんはしっかりと食べなくてはいけない。登山の世界にはシャリバテという言葉があって、最低限のエネルギーを摂取していないと血糖値が下がって力が入らなくなり、さらに脳に栄養がいかないため判断力も低下するというものだ。そうなれば、途中で動けなくなってしまい、遭難事故の原因にもなりかねないのだ。
 
山での朝食はいつもカレー。理由は簡単で美味しいから。食材は乾燥米とお湯を注いだら完成する固形のカレーの素だけ。限りなくシンプルだけど、荷物を少なくするため、余計な器具や調味料を使わないものを選んでいる。再度、湯を沸かし、乾燥米を入れる。再び沸騰したらそこにカレーのもとを加えてさらにひと煮立ちさせる。このときの香りはなんとも形容し難い。スパイスの匂いというやつはどうしてこうも人を惹き付けるのだろうか。この香りだけで米が食べられる。そのまま数分待てば、僕の定番の朝食、カレーおじやの出来上がり。最後にとっておきの粉チーズを振りかけることも忘れてはいけない。目をつぶっていてもつくれる究極的にシンプルな食事だがこれが本当に旨い。複雑なスパイスと野菜の旨みたっぷりのカレーはさらに食欲を誘い、トロトロに溶けたチーズがコクとまろやかさを演出する。一気にかき込み、鍋の底に付いたルウまできれいに食べる。夏だろうが冬だろうが、朝はいつもこればかりで、カレーのもともいろいろと試した結果、一番好きな「畑のカレー」シリーズしか持って行かない。絶対に間違えたくないのだ。厳しい自然の中にいると冗談でもなく、一日の一番の楽しみが食事になる。エベレスト登頂だなんだとしている癖に、そんなところは絶対に冒険しないのだから自分でもおかしくなる。

山での朝ごはんづくりには「PRIMUS シングルガスバーナー イータスパイダーストーブセット」を愛用。コーヒーを飲むカップは「スノーピークチタンシングル マグ 450」

ある朝、こんなことがあった。いつも通りに朝起きて、朝食の準備に取り掛かっていた。その日はもう春の陽気が暖かく、気持ちがよかったのでテントの外で調理をしていたのだが、カレーができるのを待っている間、背後でガサっと木が揺れる音がした。一瞬、ビクッと背筋が伸びる。こんな深い森の中に人がいるだろうか? 熊か猪だったらどうしよう? そんなことを考えながらゆっくり振り返ると一匹の鹿が僕のすぐ後ろでこちらを見つめていた。匂いに釣られてやって来たのだろうか、その大きな瞳は、まるでお腹をすかせた子どもが、ごはんができるのを待っているようだった。そのかわいい姿につい分けてあげたくなるが、森の生態系を守るためにぐっと我慢する。なんとか追い払おうとするが、鹿もなかなか諦めてくれない。よく考えたら、そのエネルギーで今日も山を登らなくてはいけないのだ。ひと粒だって無駄にできないし、鹿に食べ物をあげたせいで遭難なんかしてしまったら後悔してもしきれない。大声を出して威嚇し、なんとか追い払うことができたが、鹿をも魅了する強力なスパイスの香り、恐るべし……。
 
僕にとって朝食を食べることは「生きる」ということに直結している。もちろん、エネルギー摂取という側面もあるが、決してそれだけではない。生きている、そんな当たり前のことを思い出させてくれる大切な存在でもあるのだ。
 
それは決して山の話だけではなく、誰にとっても同じだと思う。朝起きて、温かいご飯と味噌汁がある、トーストとバター、コーヒーだっていい。毎朝、それがあるだけで日々が、どれほど気持ちが豊かになるか。朝食を食べるということは生きている幸せを噛み締めることなのかもしれない。

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小谷実由の喫茶モーニング修行
 
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illustration: Ayako Kubo
Discover Japan 2023年5月号「ニッポンの朝食」

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