TRADITION

関東大震災をきっかけに京都に集った民藝運動の牽引者たち。
京都がもっと楽しくなるMINGEIよもやま話

2019.9.18
<b>関東大震災をきっかけに京都に集った民藝運動の牽引者たち。</b><br>京都がもっと楽しくなるMINGEIよもやま話
いつも人が集まり賑やかだった河井邸
河井寬次郎記念館。囲炉裏の切られた部屋は、かつて居間。多くの文化人が集まり、抹茶を飲みながら、寬次郎は談論風発を楽しんだ

柳宗悦は関東大震災で被災し京都に移住。そこには河井寬次郎がいて、河井の友人の濱田庄司も震災の影響で京都へ。3人は活動をともにして「民藝」という言葉を生んだ。民藝運動に詳しい3人の鼎談を全2回にわたってお送りする《京都がもっと楽しくなるMINGEIよもやま話》の前編。

・四釜尚人(しかま・なおひと)
古美術店「しかまファインアーツ」代表。建築設計事務所勤務を経て、イギリスのオークション会社にて現代美術を学ぶ。バーナード・リーチを中心に民藝運動の作家の初期作品、イギリスと日本の民藝作品を扱う。著書に『柳宗悦と京都』(共著)がある。
・鷺 珠江(さぎ・たまえ)
河井寬次郎記念館学芸員。河井寬次郎の一人娘の須也子と、婿養子で寬次郎の弟子であった博次の娘。寬次郎の孫にあたる。寬次郎とは一緒に生活をしていた。現在は、記念館の運営のみならず、著述、企画展の運営、図録制作、講演など広く活動。
・鞍田 崇(くらた・たかし)
明治大学准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。人間・環境学博士。工芸・建築・農業・民俗などから現代社会の思想を問う。著書は『〈民藝〉のレッスン~つたなさの技法』(共著)、『民藝のインティマシー「いとおしさ」をデザインする』など。

鞍田:民藝は、まず白樺派があり、柳宗悦に自然回帰の思想が生まれたあたりに、発端が求められそうです。そして、いまの千葉県我孫子市に住んで、独自の活動をはじめていきました。

四釜:我孫子時代、バーナード・リーチが柳の敷地に窯をつくりましたし、濱田庄司はそれ以前からリーチと親交がありましたね。

:河井は、濱田さんとは東工大の先輩、後輩の仲で親しかったですし、京都市立陶磁器試験場でも一緒でした。それからリーチさんの個展や柳先生プロデュースの展覧会にも行っていたんですよ。敬称がごちゃまぜですみません(笑)。

鞍田:河井家の呼び方ですね(笑)。 そうしたシーズというか、背景があって、関東大震災という自然災害が起こって柳が京都に移住しました。「民藝」という言葉が生まれたのは、実は柳が京都にいた時代なんですね。最終的に京都という環境が民藝誕生に寄与した、とも言えそうです。

:もともとそれぞれに種はあったわけですが、出会うべき人たちが関東大震災によって一時期京都に集ったということは大きかった。そしていろんな方面へ民藝が広がっていくのに、京都という町の特徴みたいなものが影響したとは言えると思います。まず、京都は町の規模がそんなに大きくないので。

鞍田:会うのにも会いやすい。僕も学生時代から研究者になりたての頃まで京都にいまして、それは実感しています。会おうと思うとすぐ会える。当然、人間関係も深まりますよ。でも、有名な話ですが、河井寬次郎と柳は、なかなか会おうとしなかったんですよね。

:はい。河井は中国古陶磁の作風を評価され、陶芸家としてはじまりましたが、それに対して柳先生が痛烈な批判文を書かはったんです。個人の作家性よりも、無名性にこそ美の本質があるのだと。ただ、当時の河井も無名の工人の仕事のすばらしさには気がついていたんです。

無名性の用の美を求めて各地を視察して歩いた
左から陶芸家の濱田庄司、陶芸家の河井寬次郎、思想家の柳宗悦。民藝を探す旅をともにした

鞍田:そんな矢先、柳に痛いところを突かれた?

:ですから二人はすぐに会わない。柳夫人の兼子さんの証言ですと、河井は柳邸を訪ねているんです。でも、柳先生は悪口を書いたからいないと言ってくれと会わない。河井の家にも柳先生が訪ねて来られるんですが、濱田さんに会いに来たと言う。だったら会わないって河井は出て行かないんです。

鞍田:当時、濱田庄司は河井邸にいたんですか?

:そうなんです。その頃、濱田さんはリーチさんとイギリスにおられました。で、河井からの手紙で関東大震災を知り、急いで戻って来て河井邸にしばらくいはったんです。

四釜:イギリスから船で神戸に着くと、真っ先に河井邸に向かっています。

:はい。帰国した濱田さんは、ためらう河井を柳先生のお宅に引っ張っていかはったから、濱田さんが接着剤ですよ。当時の柳先生は木喰仏の研究をはじめられた頃で、お宅に木喰仏があった。それを見た河井はひと目で感動し、そこから二人は氷解し、一気に打ち解けていきました。

四釜:セント・アイヴスでリーチと濱田はイギリスの民窯を研究しました。その過程においてスリップウェアを見出しました。帰国して真っ先に訪ねた河井邸でスリップウェアを前に熱く語り合ったと言います。でも、濱田が河井邸にいたのは帰国後の数カ月です。

鞍田:短い間でしたけど、濱田の存在は大きいですね。

:本当ですね、河井は柳先生という同志を得て、もともと疑問に感じていた自分の作風を考え直す機会になったんです。その後の3年間は個展を開かず試行錯誤を繰り返しました。

鞍田:そうやって出会い、柳、河井、濱田の3人で1925年の暮れ、紀州の高野山のほうへ木喰仏の調査に出ます。その旅の最中に、「民衆的工藝」を略し、「民藝」という言葉が生まれたのです。そして翌年に「日本民藝美術館設立趣意書」が出来上がりました。

文=藍野裕之、上村みちこ 写真=小野さゆり 写真提供=河井寛次郎記念館
2019年10月特集「京都 令和の古都を上ル下ル」

《京都がもっと楽しくなるMINGEIよもやま話》
1|関東大震災をきっかけに京都に集った民藝運動の牽引者たち
2|実業家の支援によって支えられた民藝運動

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