TRADITION

平安時代とはどんな時代?
平安貴族の独自の国風文化【後編】

2024.12.6
平安時代とはどんな時代?<br>平安貴族の独自の国風文化【後編】

894年の遣唐使の廃止によって唐の影響が弱まり、日本独自の国風文化が花開く。平安貴族が担い手となった雅な文化は、現代の日本文化につながる発明もあった。

後編では平安とはどんな時代だったのかを京都ノートルダム女子大学名誉教授である鳥居本幸代さんとキーワードから紐解いていく。

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《ファッション》
平安時代の礼服をひも解く

和田正尚『源氏物語絵詞』/国立国会図書館デジタルコレクション

平安時代中期、貴族の装束は大きい袖をもったゆるやかなシルエットへと変化した。男性貴族の装いには、「晴(はれ)《儀式》」と「褻(け)《日常》」、文官(政務官や事務官)と武官(内裏の内外を守護し軍務に携わる官)、位階による厳格な決まり事があった。一方、女性は男性に比べて決まり事も少なく、『源氏物語絵巻』に見るような重ね着が流行し、季節の移ろいを反映した色彩美が表現された。

《建築》​​
国風文化の舞台となった建築とは?

平安時代の面影を残す「平等院鳳凰堂」
平等院の前身は、859年に源融(みなもとのとおる)がつくった別業(べつごう・別荘)で、天皇の離宮となった後に藤原道長の所有となった。道長の死後は藤原頼通に受け継がれ仏寺に。写真の鳳凰堂は、1053年、頼通によって建立された
写真提供=平等院
『源氏物語』の舞台となった寝殿造とは?
宮廷行事は大極殿(だいごくでん)をはじめとする殿舎で行われ、『年中行事絵巻』には弓の腕前を競う賭弓(のりゆみ)が催され、幕を隔てて饗饌(きょうせん)の座に着く、多くの武官の姿が描かれている
常盤光長ほか『年中行事絵巻』/国立国会図書館デジタルコレクション

貴族の邸宅は「寝殿造(しんでんづくり)」(江戸時代後期の国学者沢田名垂(さわだなたり)『家屋雑考』の中で命名)と呼ばれる建築様式によって営まれ、広々とした庭、大きな人工の池があるのが特徴である。建築物は敷地の北辺に偏り、日当たりを考慮して南向きに建設された。

建築物は主屋となる寝殿を中心に、寝殿の東西あるいは北には寝殿と同規模の対(たい)の屋があり、それらは渡殿(わたどの)と呼ぶ渡り廊下で結ばれていた。寝殿も対の屋も入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の構造で、寝殿の内部は母屋(もや)と廂(ひさし)と簀子(すのこ)の三重構造を呈し、板敷きで、壁のない吹放(ふきはなし)であった。さらに、壁の使用は極めて稀少で、固定した間仕切りのない広々とした一間であった。

常盤光長ほか『年中行事絵巻』/国立国会図書館デジタルコレクション

寝殿造の最大の見せ場は、寝殿と池の間にある広大な庭の設計だ。池や築山の造形、前栽に植えられる樹木の選定なども邸宅の主が行うなど、細部に至るまで注意が払われた。光源氏も六条院建設にあたって、4区画に区切って、それぞれに四季の樹木を植えたという。このような庭の風情はおおむね屋内から眺望されることが多く、おそらく『源氏物語絵巻』に描かれた笛や琴を奏でる公達(きんだち)や姫君も、簀子から移ろいゆく庭の佇まいを眺めていたのであろう。

《音楽》
宮廷人に愛された楽器・琵琶

琵琶は四絃四柱の絃楽器で、撥を用いて演奏する。演奏法が比較的簡単で、女性でも弾きこなせる楽器といわれ、『源氏物語』の中では明石の君が演奏法を父より相伝している
和田正尚『源氏物語絵詞』/国立国会図書館デジタルコレクション

『枕草子』に「あそびは夜。人の顔みえぬほど」という一節があるが、その遊びとは雅楽(ががく)を奏でることである。雅楽は5~10世紀にかけて、広く東アジアから伝わった音楽や舞で、大宝律令において雅楽寮を設置して専門家を養成し、雅楽は宮廷儀式には不可欠な存在として位置づけられた。

平安時代に入ると、外来の音楽であった雅楽は貴族のたしなみとされ、和歌・書と並んで教養のひとつとされるようになった。この頃には、日本人による楽曲や舞の新作も行われるようになり、10世紀には漢詩に雅楽のメロディをつけた朗詠が源雅信(みなもとのまさのぶ)《宇多天皇の孫》によって創始されたと伝えられる。藤原公任(ぶじわらのきんとう)は朗詠のために供された漢詩を収めた『和漢朗詠集』を編纂したことからも、雅楽の日本化をうかがい知ることができる。

一条天皇(980~1011年)は龍笛(りゅうてき)に堪能であったといわれ、天皇が主催する管絃の催しは御遊(ぎょゆう)と称され、管絃のほか、朗詠や催馬楽(さいばら)などをして楽しんだ。一条天皇は10歳のときに、円融天皇の御遊で龍笛を披露し、天皇を感嘆させたという。
『源氏物語』で光源氏は舞も管絃の才能にも優れていたと描かれ、紅葉賀の巻に頭中将(とうのちゅうじょう)と並んで舞楽「青海波(せいがいは)」を舞い、若紫に筝の手ほどきをするほど堪能であった。

《遊び》
蹴鞠、鶏合、 貝合など…… 平安貴族の遊び方

7世紀頃、中国から伝来した球技で、勝敗を左右するゴールはなく、ラリーを楽しむスポーツ「蹴鞠」。『枕草子』にも「格好は悪いが蹴鞠もおもしろい」と記されている
『蹴鞠図屏風』/ColBase

さて、邸宅の広い庭では蹴鞠などのスポーツも楽しまれたが、屋内で過ごすことが多かった貴族たちに好まれた遊びに物合(ものあわせ)がある。それは多人数を集めて左右に分け、双方の事物を合わせて優劣を競うもので、鶏合(とりあわせ)・菖蒲根合(しょうぶねあわせ)・貝合(かいあわせ)・歌合(うたわせ)・絵合(えあわせ)・薫物合(たきものあわせ)などがあった。

貝合は貝のかたち・色・大きさ・珍しさなどの優劣を競うものであったが、平安時代末期から行われていた貝覆(かいおおい)と混同されるようになった。ちなみに、貝覆は蛤の貝殻を用いて地貝、出貝に分け、貝の内側に絵画や和歌を描き、出貝に合う地貝を多く見つけたほうが勝者となる遊びである。

《文学》
かな文字の発明が王朝文学を生んだ!?

男性が女性の文字を使った『土佐日記』
平安時代の女流文学はかな文字で記された。女性が使用したことから「女手」ともいう。紀貫之が書いた『土佐日記』は、女性のふりをして書いた最古の日記文学

貴族たちは日常的に和歌を詠み、その和歌の出来映えを競うのが歌合で、村上天皇が960年に主催した「天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)」は、つとに有名である。仮名文学の白眉といえる『源氏物語』には800首近い和歌が登場する。

和歌は流れるような仮名文字で書かれるが、仮名は漢字を基にしてつくられた表音文字である。

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監修・文=鳥居本幸代
Discover Japan 2024年11月号「京都」

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