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盛岡・光原社へ。一生ものの民藝に出合う時間旅行。【第一回】

2017.1.20

柳宗悦をはじめとする民藝運動家や一流作家と交流を結んできた光原社。民藝の枠を超えて築かれた独自の世界に魅了される人は数知れず。そんな光原社のルーツをたどります。

そもそも、「光原社」はどんなところでしょうか?

はじまりは小さな出版社。

1924年、宮沢賢治の童話集『注文の多い料理店』を発刊し、賢治の聖地としても知られる「光原社」。社名も賢治によって名づけられました。

創業者は、盛岡高等農林学校で賢治の1年後輩だった及川四郎。卒業後、四郎は盛岡の館坂で農薬の製造販売や農業教科書の出版業をはじめ、花巻農学校の教師をしていた賢治と再会します。そこで膨大な童話の原稿を預かったことが、『注文の多い料理店』を世に送り出すきっかけとなりました。

写真は、敷地内の中庭奥の白壁の一枚一枚に力強く描かれた賢治の詩。

資金を何とか工面しながら二人の情熱を注ぎ込み、つくり上げた賢治の処女作でしたが、当時は注目されることなく在庫の山を築き、事業としては失敗に終わりました。しかし、四郎の賢治に対する敬愛の念は、まったく変わることはなかったといいます。

そして、この窮地に四郎が目を向けたのは、農業書の販売で各地を訪ねる際に手土産にしていた南部鉄瓶。新たな事業として名工、高橋萬治を顧問に迎え、南部鉄瓶の製造販売をスタートさせました。さらに、鉄瓶の錆止めに使っていた黒漆から、漆器の製作販売にも携わるようになり、生来好きでたまらなかった工芸の道へと進んでいったのです。この頃、四郎の相談相手として親交があった、彫刻家でのちに岩手県民藝協会理事・顧問を務めた吉川保正から「おもしろい人がいる」と紹介されたのが、民藝運動の提唱者、柳宗悦でした。写真中央に写るマフラー姿の男性が柳宗理、前列右端が四郎氏です。

時代の天才たちが集った民藝の桃源郷

’37年、光原社が館坂から現在の材木町へ移転した頃から、東北地方の民藝調査や講演会に訪れる柳をはじめ、陶芸家の濱田庄司や河井寛次郎、染色家の芹沢銈介、版画家の棟方志功など、一流工芸家たちが集うサロンとなっていきました。ホームスパンの第一人者で、日本民藝協会理事や同岩手県支部長を務めることとなる及川全三や吉川らとともに、岩手における民藝運動の担い手となり、’42年には日本民藝協会岩手県支部の立ち上げにも尽力しました。

’65年、柳らの指導の下、全国の民藝の品を扱う工芸店として光原社は生まれ変わりました。翌年から敷地内に店舗がひとつずつつくられ、現在の姿へと変わっていきました。店のロゴや看板など、敷地内には親交の深い作家の作品が賢治ゆかりの品々と同居し、資料室には日本工芸界を代表する名工の作品のほか、彼らから四郎に宛てられた数多くの書簡が並んでいます。それは、つくり手の本質を見抜き、心の交流をしてきた四郎の深い人間性を表す品々で、光原社が、東北のみならず全国の民藝店を牽引する存在となった理由をひも解くカギでもあります。

現在も使用されている包装紙や掛け紙は、柚木沙弥郎や川上澄生ら、民藝の作家たちが描いた秀逸なデザインが使用され、好評を得ています。

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第二回に続く

 

text:Chiho Iwakoshi photo:Satoshi Nagare

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