柏井壽さんが行く
京都“茶の謎解き”名所案内【前編】

2022.11.20
柏井壽さんが行く<br>京都“茶の謎解き”名所案内【前編】
写真提供:晴明神社

京都の街を歩けば出合える神社や庭園、美術館……。茶にまつわる京都の名所に隠された秘密に、京都の街を知り尽くした作家・柏井壽さんが迫ります。

文=柏井 壽
1952年、京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業するかたわら、京都にまつわるエッセイや『鴨川食堂』(小学館)シリーズといった小説を執筆。幼少の頃から茶道に親しむ

千利休と豊臣秀吉の関係は
晴明神社にヒントが?

千利休は秀吉から切腹を命じられ、命を落としたことは、よく知られていますね。
 
その理由については諸説あって、定かではありませんが、一條戻橋でさらし首にされたというのは、紛れもない事実です。
 
その一條戻橋のすぐ近くに「晴明神社」が建っていて、陰陽師・安倍晴明ゆかりの社として人気を集めていますが、かつてその境内に利休の屋敷があったことは、存外知られていません。
 
しかし、利休はなぜこの場所に住んでいたのでしょう。
 
実はこの住まいは、秀吉が利休に与えたという記録が残っているのです。
 
そしてこの利休の住まいを秀吉はたびたび訪れているのです。なんとも不思議な話です。
 
なぜならこの近所には、秀吉の政庁兼住宅である「聚楽第」がありますから、普通に考えれば、利休が聚楽第に向かうべきでしょう。
 
戦国時代の武将たちは、ことのほか体面を重んじます。
 
二人の身分差を考えれば、関白となった秀吉が、一茶人でしかない利休を訪ねるのは、極めて異例だといえるでしょう。
 
神社の境内にいまも残る「晴明井」の名水を使った茶を飲みたかったからでしょうか?
 
そんな単純なことではないと思います。
 
ここで思い返していただきたいのは「待庵」です。
 
あの待庵もまた、秀吉から与えられたものだったことを考えると、おそらく秀吉は、この地の利休屋敷にも茶室をつくらせていたのではないかと思えるのです。
 
もし秀吉がいなかったなら、利休は茶人として名を残すに至らなかったでしょうし、思い半ばで命を落とすこともなかったでしょう。 晴明神社界隈を歩くと、利休と秀吉の不思議なつながりに、いつも思いをめぐらせてしまいます。

「千利休居士聚楽屋敷 趾」の文字が刻まれ、千利休の屋敷がかつて境内にあったことを記す石碑。利休の遺徳をたたえて、武者小路千家の家元によって2004年に奉納された
安倍晴明が念力により湧出させたと伝わる「晴明井」。病気平癒にご利益があるとされ、湧き出す水は現在も飲むことができる。利休がお茶を点てる際に使っていたといわれる
1995年に架け替えられ、晴明神社から南に100mの場所に架かる「一條戻橋」。晴明神社では、先代の橋の一部を移し、境内に以前の姿を再現
安倍晴明を祀る晴明神社の本殿。随所に社紋である晴明桔梗(ききょう)があしらわれており、右には魔除け・厄除けの果物といわれる桃をモチーフにした「厄除桃」、左には安倍晴明公像が建つ
写真提供:晴明神社

晴明神社
住所|京都市上京区晴明町806
参拝時間|9:00〜17:00 
参拝料金|無料
Tel|075-441-6460(社務所)

利休の美学が詰まった
“樂焼”はなぜ生まれた?

樂美術館の展覧会では、利休の美意識を基に受け継がれ、時代に合わせて変化してきた樂焼の歴代作が並ぶ。写真は樂焼創始者・長次郎の作品で、動きや装飾性を極限まで削ぎ落した侘茶にかなう茶碗
初代 長次郎 『黒樂茶碗 銘 万代屋黒』 利休所持 万代屋家伝来 文叔宗守・啐啄斎箱書付

前述の利休屋敷や聚楽第からほど近いところに居を構えていたのが「樂家」です。
 
利休が存命だった頃、この樂家の焼物は「今焼」と呼ばれていたそうです。
 
しかし、樂家の創始者ともいえる長次郎がつくった「樂茶碗」を世に出したのは利休でした。
 
そしてその茶碗は秀吉のお気に入りとなり、聚楽第の「樂」の印字を下賜されたといわれています。
 
一説には利休の屋敷も聚楽第に近接していたことから、「聚楽焼茶碗」と呼ばれ、そこから「樂」を名乗ったともいわれています。
 
いずれにせよ、待庵から続く、秀吉と利休のつながりによって、「樂」の茶碗が茶の湯の重要な位置を占めるに至ったのは間違いありません。
 
ではこの「樂」のルーツはどこにあるかといえば、中国河南地方の明時代三彩釉だというのですから、なんとも意外ですね。
 
「交趾焼」のルーツにもなった三彩釉といえば、黄色、紫、緑釉という鮮やかな色合いの焼物で、黒樂や赤樂など、いまぼくたちが思い浮かべる樂茶碗とは、まったく趣を異にするからです。
 
天正四年といいますから、1576年に、樂家は京に住まい、窯場を築いていたわけですが、その近くに利休屋敷があり、利休と出会ったことで、作風が大きく変化し、侘びを主とする、利休の美意識を具現化するようになったのでしょう。
 
もしも樂家と利休の出会いがなければ、樂茶碗も生まれることなく、まったく別の歴史が生まれていたことでしょう。
 
そんな樂家の歴史をたどり、歴代の作品を間近にできる「樂美術館」に、ぜひ足を運んでみましょう。侘び茶の片鱗に、触れられるはずです。

樂美術館
樂歴代 特別展「利形の守破離 −利休形の創造と継承−」

会期|〜12月25日(日) 
住所|京都市上京区油小路通一条下ル 
開館時間|10:00〜16:30 
休館日|月曜(祝日の場合は開館)
料金|一般1100円、大学生900円、高校生500円 
Tel|075-414-0304

現代に続く利休の系譜
三千家誕生のヒミツ

紀州徳川家より江岑拝領 ノンコウ作『御紋茶碗』

跡継ぎは誰か。
 
名家に限らず、誰が跡を継ぐのか、は重要であり、かつ難題となるのが通例です。
 
千利休の場合も同じくで、利休の死後、一族は各地に四散していたのですが、秀吉に許された利休の嫡男・千道安が堺へ戻り、跡を継ぎました。
 
しかし道安に嫡子がいなかったために、利休の血脈としての堺千家は、断絶してしまったといわれています。
 
代わって、利休の後妻の連れ子で、娘婿でもある千少庵系統の家が千家を引き継ぐことになります。
 
その後、千家は諸般の事情で3つの枝をつくり、表千家、裏千家、武者小路千家と三千家を名乗ることになりました。
 
元をたどればルーツは同じなのですが、それぞれに作法や道具立てが少しずつ異なり、いまも脈々と受け継がれています。
 
余談になりますが、京都に住んでいると、茶道を嗜むのは当然なので、「お茶はどちらで?」とたずねられると、三千家のどれかを答えるのが当たり前とされています。
 
三千家ゆかりの地を訪ねるのも一興ですね。

『利休居士画賛』 十二代又玅斎直叟・十三代円能斎鉄中合筆 今日庵蔵 後期展示(〜12月4日)

「表千家北山会館」の特別展では、利休の曾孫で表千家4代家元・江岑宗左(こうしんそうさ)の生涯と茶の湯、三千家成立とその時代を学ぶことができる

表千家北山会館
特別展「三千家のはじまり 江岑宗左と千家茶道の確立」

会期|〜12月18日(日)
住所|京都市北区上賀茂桜井町61
開館時間|9:30〜16:30
休館日|月曜(祝日の場合は翌日休)
料金|一般1200円、大学生1000円、高校生500円(呈茶を含む)
Tel|075-724-8000

「茶道資料館」では、歴代宗匠による自作の茶道具や書画を紹介する特別展を開催中。歴代家元の好みの違いなども感じつつ、裏千家の歴史をたどれる内容だ

茶道資料館
特別展「裏千家の茶趣—歴代宗匠の茶道具・書画を通して—」

会期|〜12月4日(日)
住所|京都市上京区堀川通寺之内上ル寺之内竪町682 裏千家センター内
開館時間|9:30〜16:30
休館日|月曜(祝日の場合は翌日休)、第2・4火曜
料金|一般1000円、大学生600円、高中生350円
※呈茶は500円(要別途入館料)
Tel|075-431-6474

 

  
 
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