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沖縄が誇る名居酒屋
《うりずん》の秘密【前編】

2022.8.2
沖縄が誇る名居酒屋 <br>《うりずん》の秘密【前編】

夜の帳が下りる頃、那覇の社交街栄町でひと際賑わいを見せる店がある。沖縄が本土復帰を果たした1972年の8月15日より歴史を刻む、古酒と琉球料理「うりずん」だ。創業者、故・土屋實幸がこの店に込めた想いを、彼を愛した仲間たちの声からひも解いてみた。

50年前から変わらぬ外観。○の中にカラカラが3つ入ったロゴマークは尚王家の家紋、「左御紋」の左三つ巴をイメージした

名居酒屋の伝説は、古酒に魅せられた男の
熱い想いからはじまった

創業50年、県内すべての泡盛酒造所の泡盛を揃えて、古酒を世に知らしめ、ドゥル天という沖縄料理を生み出すなど、さまざまな伝説が残る老舗居酒屋、栄町の「うりずん」。

いまでは日本中の居酒屋や量販店、コンビニエンスストアでも手に入る泡盛だが、戦後は沖縄でも「臭い、きつい、ヒンスームン(貧乏人)の酒」とさげすまれ、酔いたいときの安い酒で、一升瓶にヨモギを入れて、臭いを消して飲み干したという。飲み屋でも泡盛を扱っていない店のほうが多く、時代はウイスキー全盛だった。まだそんな風潮が色濃く残る1972年、土屋實幸(故人)は、離島を含め県内57酒造所の泡盛を扱う古酒と琉球料理「うりずん」をオープンした。

賃料が安かったという理由で選んだ栄町は戦後、ひめゆり学徒隊で知られる沖縄県立第一高等女学校の跡地にできた闇市がはじまりで、山羊刺し屋や飲み屋、女性が春を売る温泉マーク(連れ込み宿)が建ち並び、朝になると、昨晩に酔っ払いが落としたドル(復帰前はドルが沖縄の法定通貨)を拾い集める人の姿も。地元ヤクザが飲み屋のショバ代を大手を振って回収する、そんな場所だった。

大きな甕は咲元酒造の8年古酒。もう30年以上仕次ぎされている。迫力のある土壁は、うりずんの創業時に、土屋の友人である陶芸家の島武己さんが北部から土を運んでつくった芸術

1942年、本島北部の本部町で生まれた土屋は、地元で評判の秀才で、県立那覇高等学校へ進学、その後、東京の東洋大学へ入学する。大学時代の大親友で、イリオモテヤマネコ研究の第一人者でもある安間繁樹さんは学生時代を振り返る。

「土屋くんは学費を稼ぐため、朝も昼もアルバイトをしていました。大学出の初任給が3万5000円の当時、4万円も稼いでいましたよ。そのころ内地では泡盛の知名度はなかったのですが、中野の安い居酒屋『沖縄そば・那覇』に通い、友人たちと朝まで飲み明かしたものです。土屋くんの周りにはいつも人が集まっていましたね。奄美大島出身のおばさんが経営する『加那』という小料亭には、三線や踊りがあり、一人5000円はしたでしょうか。学生にはずば抜けて高く、頻繁には行けませんが、沖縄について学べるちょっとした塾でした。東京生活が土屋くんを泡盛に目覚めさせたと思います」

大学卒業後は帰沖し、同郷の妻・恵子(故人)と首里に暮らした。就職したいまにもつぶれそうな平和通りの「キング衣料」で、アイデアマンとしての才能を開花させる。

沖縄から中南米への移民が盛んな当時、現地の衣類は高価で品質がよくないという話を聞きつけ、移住予定者の家を訪ねて衣類の注文を取り、移住先のボリビアやブラジルまで船便で送付したのだ。

その頃、多くの文化人が訪れる琉球料理店「おもろ」に入り浸る。おもろでは「沖縄はこれからどうなっていきたいんだ?」と日々議論が交わされていた。あるとき「土屋は何をしたい?」と聞かれ「俺は泡盛をやりたい。古酒を造りたい」と答えた。

独立を決めた土屋は、全酒造所の泡盛を揃えたいと考えていたが、当時は沖縄本島の泡盛ですら、すべてを扱う店はなかった。理由はいくつかあるが、泡盛は臭く、安物のアルコールというイメージが定着し、県民が飲まなかったこと、洋酒が免税で購入できたこと、泡盛メーカーには「縄張り」があり、地域外では売らないという暗黙のルールがあったこと。ここで土屋の人づき合いのよさが発揮された。離島を含むすべての酒造所を説得し、泡盛を揃えることに成功。店名はおもろの店主に名づけを依頼。『おもろさうし 』(沖縄最古の歌謡集)に登場する“初夏の風”を意味する言葉「うりずん」から取ったという。

ようやくオープンにこぎ着けたが、当初客足は鈍かった。しかし、うりずんで故郷の島酒・泡盛が飲めると聞いた人たちが、ポツリポツリと訪れるようになった。時折、爪弾く三線の音色と遠く離れた島をしのぶ唄もあった。うりずんは、離島出身者の心のよりどころとなった。

創業から数年はうりずんの2階が自宅だった。土屋と妻の恵子、2代目の徹さんと当時のスタッフ

開店からしばらくは、1階が店舗で家族は店の2階で暮らし、料理は専ら妻の恵子によるものだった。職人を雇用するようになってからも、厨房にはいつも恵子の姿があったが、決してお客の前に出ることはなかった。

店の経営はなかなか軌道に乗らず、3年目ぐらいまでは弁当を販売していた。近所に飲食店がない会社と、恵子と土屋の妹がつくった500円弁当を契約。300円を福利厚生として会社が負担し、社員は200円を払う仕組みで確実な現金収入を得た。

当時を一番よく知る、土屋の弟分だった、現・泡盛百年古酒元年会長の知念博さんは目を細めて語る。

「私がアルバイトで入ったときは、お客はまだ1日に5組ぐらい。皆、土屋さんに会いにきていた。土屋さんは自分で料理はつくらないけど、研究は好きでね。ドゥル天はドゥルワカシーをたまたま天ぷらにしたものですが、これが美味しかったのでメニューに加わりました。いまではよその沖縄居酒屋にもありますが、うりずんが発祥です。土屋さんは、毎年私を沖展(沖縄の総合美術展)に連れてゆき、染織や絵画、美術に触れさせてくれた。我々世代の県民にとってうりずんは特別な場所です。うちなーんちゅ(沖縄人)はどんな哲学をもって生きていけばいいのかを教えてくれた。みんな想いを受け継いでいますよ、と土屋さんに伝えたいです」

長年、広報を担当するデザイナーの吉見万喜子さんも当時を振り返る。

「40年前にうりずんをはじめて訪れたときは、文化人が集まる有名店で、ここに来れば沖縄のすべてがわかると聞いていました。常連には、陶芸家の島武己さんや沖縄水産高校の栽弘義監督、中尾彬さん・池波志乃さんご夫婦、大島渚さん、筑紫哲也さん、土屋さんの那覇高校の同級生の財界人などが、毎日土屋さんを囲んで飲んで。それはそれは華やかでした」

うりずんの階段を上った正面にある古酒は、創業当時からの50年もの。誰も飲んだことがない貴重な品。ビールもよく飲んだという土屋さんだが、必ず、ちぶぐわーの古酒で締めた

 

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text: Kiyomi Gon photo: Kengo Tarumi
Discover Japan 2022年7月号「沖縄にときめく/約450年続いた琉球王国の秘密」

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