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いま、私たちは親鸞に惹かれています。(後編)

2019.4.27
いま、私たちは親鸞に惹かれています。(後編)

浄土真宗の宗祖である親鸞は、スーパーマン空海とは対極にいる存在なのかもしれない。「憧れ」ではなく「救い」。
その思想と生き方に惹かれている、連続起業家・家入一真さんと僧侶・松本紹圭さんによるオンライン対談が実現!「親鸞と自分」について、なぜいま、私たちには親鸞が響くのか……? 存分に語ってもらいました。
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【PROFILE】
家入一真さん(写真・右)
連続起業家。CAMPFIRE代表取締役CEO。1978年生まれ、福岡県出身。「誰しもが声をあげられる居場所をつくる」をテーマに、「リバ邸」や「やさしいかくめいラボ」など、さまざまな事業を展開する。元引きこもり。
Twitter: @hbkr

松本紹圭さん(写真・左)
1979年、北海道生まれ。東京神谷町・光明寺僧侶。未来の住職塾塾長。東京大学文学部哲学科卒業。寺の朝掃除の会「Temple Morning」を広める。著書に『お坊さんが教える心が整う掃除の本』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)ほか。
Twitter: @shoukeim

文:根岸達朗 / 写真:服部希代野
※この記事は2019年4月5日に発売したDiscover Japan5月号特集『はじめての空海と曼荼羅』の記事を一部抜粋して掲載しています。

「自分のどうしようもなさを知る人こそ、救われる。」

家入:僕は親鸞が称えた言葉や考え方は全部好きなんです。たとえば「他力本願」や「悪人正機」。あと、自分で「弟子はいない」とおっしゃっているところも、素晴らしいと思います。最近はTwitterやInstagramでいかにフォロワーを増やすかというような承認欲求が高まってきているように見られますが、親鸞の生き方を知れば、その無意味さに気づくんじゃないかなと。何者かにならなければならないなんてことは、そもそもありませんからね。

松本:そうですね。ただ、そうやって後世から見ると完成されているようにも思える親鸞ですが、およそ90年の生涯を通して悩み続けた人でもあるんです。だから、親鸞がいまの時代でもしTwitterをしていたら、かなりネガティブツイートが多いかもしれませんね。発言がブレることもあるでしょう。親鸞は基本的に、自分の中にある「悪」を見つめ続けていますから。

家入:確かに。そこも多くの人に知ってもらいたいところですね。これが「善」でこれが「悪」というように断じる人が多い時代だからこそ、そのすべてが自分の中にあるということにも自覚的でなければいけないと思っています。

松本:親鸞は常に迷い続けて問い続けて、自分を見つめ続けて生き抜いた人です。そこに私も共感します。親鸞の主著である『教行信証』に「非僧非俗」という言葉があるんですが、これは自分は僧侶でもなくて、俗人でもないという意味です。「半僧半俗」ではなく「非僧非俗」です。自分のことを「愚禿」とも名乗ってます。愚禿というのは、その字の通りで「おろかなハゲ頭」という意味なんですけどね。

家入:はい。

松本:自分のことをそこまでおとしめなくてもよさそうに思いますよね。でも、親鸞はそこを徹底するんですよ。親鸞はよく「凡夫」という言葉を使います。これは自分の存在そのものに深く内在している救いようのなさを表す言葉です。自分の「凡夫」性に気づくことが大事だと言っている。

家入 わかります。僕は国内外35カ所に「リバ邸」という居場所をつくっています。これは、既存の仕組みからこぼれ落ちるなどして、この社会に何らかの生きづらさを抱えた人たちが「何者でもない自分」として、ただいられる場所です。みんなが心に傷を負っているし、何らかのコンプレックスを抱えている。その誰にも理解できない孤独が、孤独としてつながる場所に、僕は現代の「救い」があると思っているんです。

松本:自分のどうしようもなさ、そしてそんな、どん底を知る人こそ救われるというのは、親鸞が教えてくれることですね。言い換えれば、自分の凡夫性に出遇って、悪人性を見つめざるを得ない、そのどうしようもなさの中にこそ救いがあるということ。そういう意味では、リバ邸は自分の凡夫性に気づく場所でもあるのかなと。たぶんリバ邸に集まってくる人たちというのは、この世界に自分の居場所なんてあるのだろうかと、問うことのできるセンサーをちゃんともっている感度の高い人たちなんでしょうね。

「リバ邸は、“何者でもない自分”であれる場所。」

家入:以前、リバ邸のことを社会学者の宮台真司さんが「アジールだね」と言ったんです。アジールというのは「聖域」、「自由領域」、「避難所」などを意味する社会的な概念です。現代人は少なからず家庭、学校、社会など、自分が属するあらゆるところで何らかの役割を負わされるけれど、ここにはそれがないと。かつてはそういう場所がお寺だったり、学校なら屋上だったりした。けれど、そういう場所がどんどん少なくなっているから、生きづらさを感じる人が増えている。ここは現代には少なくなった「何者でもない自分」であれる場所だね、と評価してくださったんです。

松本 「何者でもない自分」というのは、親鸞が言うところの「非僧非俗」に通じますよね。僧侶でもないし、俗人でもない。決定されることなく宙吊り状態です。それでいいし、それでしかないと、親鸞は教えてくれます。現代では自分を何者かであると決めてアピールするようなセルフブランディングなどがもてはやされていますが、それってどうなの? という感覚をもっている方だったんでしょう。それでずっと宙ぶらりんを貫き通すというのは、すごいことだと思います。

親鸞は憧れのクラスメイト!

家入:僕は親鸞の考え方を知って、自分のやってきたことを丸ごと肯定してもらえたような気持ちになりましたね。ただそれを若いときに知っても、そこまで心には響かなかったかもしれません。僕は引きこもり、落ちこぼれで、人生を悔やみながら生きてきたんですが、それがあるからこそいまがあるんだと、ある程度思えるような歳になって、親鸞の言葉が深く刺さったのかもしれません。出会えたのはタイミングだと思っています。

松本:そうですね。私は縁あって浄土真宗の僧侶になったのですが、僧侶になりたての頃は、空海の方がかっこいいなって思ってたこともありましたからね(笑)。スーパースターに憧れる時期ってあるじゃないですか。でも、そう自分がなろうと思ってもなれない。年齢を重ね、不条理を知り、憧れは憧れのままに受け入れられるようになってきて、だんだん親鸞が好きになってきたかもしれないですね。

家入:糸井重里さんや五木寛之さんなど、一時代を築いた人たちがみんな親鸞に行き着いているようにも見えるんです。歳を重ねたいまだからこそ響く何かがあるんでしょうね。

松本:浄土真宗の僧侶としてみれば、親鸞は開祖であると同時に偉大な師匠であり大先輩としてとらえています。ですが、最近はすごく「お会いしてみたいな」っていう気持ちが出てきましたね、畏れ多くも。親鸞って、「近さ」が魅力だと思うんです。当時、法然が先生で、親鸞はその生徒でした。もちろん超優秀な親鸞の足元にも自分は及びませんが、それでも時代を超えて同じ「クラスメイト感」を共有できるような気がするんです。ずっと近づき難い雰囲気で声を掛けづらかったけど、勇気を出して放課後にお茶でも誘ってみようかなと。

家入:ははは、いいなあ。それでいうと僕はやっぱり引き続き、親鸞はライバルだな。憧れって言っちゃうと一生追いつけない気がするので、あえてそう呼びたいんです。

心が軽くなるヒントがたくさん!
親鸞のありがたい言葉も紹介

 

家入一真さんと松本紹圭さんの対談をはじめ、親鸞については、Discover Japan5月号 特集『はじめての空海と曼荼羅』にてさらに詳しく紹介しています!
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